実は、キャンプ初日に野村監督の指示を受けた投手コーチから社会人時代になじんだ二段モーションを矯正され、自分のフォームを見失ったことに加え、肘と右足を痛めたのに無理をしたことが、1年目の低迷につながった。
阪神では9年で通算5勝と伸び悩んだ藤田は、09年シーズン途中、西武に移籍すると、セットアッパーとして素質開花。当時楽天を率いていた野村監督は、1年目のキャンプ初日にフォームを直したことを詫びたという。
投手コーチから意に反する指示を受けたときに「あんたのためにやってるんじゃない!」と言い返した藤川球児のように、プロの世界では、時には妥協を許さぬ強い気持ちも必要なのかもしれない。
ドラフト制以降では新人史上初のオープン戦首位打者になったのに、シーズンでは期待外れに終わったのが、14年のロッテ・井上晴哉だ。
入団早々“幕張のアジャ”の愛称で人気者になった井上は、3月5日のオープン戦、楽天戦で4打数3安打を記録し、打率.571で首位打者に躍り出た。
オープン戦後半では4番を打ち、3月22、23日のヤクルト戦で1号2ラン、2号ソロの2試合連続弾を放つなど、打率.435。見事新人首位打者の快挙を達成した。
そして、同28日の開幕戦、ソフトバンク戦では、本来の4番・今江敏晃が故障というチーム事情もあり、球団では毎日オリオンズ時代の1950年の戸倉勝城以来64年ぶりの新人開幕4番に抜擢された。
だが、1回1死二塁で回ってきたプロ初打席で、摂津正の速球にバットを折られ、三ゴロに倒れるなど、4打数無安打2三振。「ビビッてしまった。手が出なかった」とうなだれた。
翌29日も4番で出場したが、1回1死一、二塁の先制機に空振り三振に倒れるなど、3打数無安打2三振。4番のプレッシャーから115キロあった体重が5キロも減った。
3戦目からスタメン落ちした井上は5月に2軍落ち。2年目以降も夏前に2軍落ちする“春男”のパターンを繰り返したが、18年に24本塁打を記録し、5年目で真の4番に定着した。
巨人・菅野智之からオープン戦で初めて本塁打を放ったルーキーと注目されながら、シーズンではまったく打てなかったのが、20年のオリックス・勝俣翔貴だ。