■素朴なエストニアの人々との出会い
山元さんは、神戸市郊外の自然が残る新興住宅地で生まれ育った。
幼いころから言葉が苦手で、「自分はちょっと欠けている」という思いを抱いてきたという。
「どう言葉にしたらいいかわからないから、うまくしゃべれなくて、無口な子だった。友だちと遊ぶよりも植物といっしょにいることが楽しかった。自然だけでなく絵もそうなんですが、自分はそれとつながることですごく救われると感じてきた。そんな感覚をいまでもとても大切にしています」
山元さんは大学卒業後、京都の特別支援学校で1年間、美術教師を務めていたことがある。
「生徒たちと言語以外でつながれる感覚がとても居心地よくって。そういう人たちともっといっしょにいたいって思うと同時に、この感覚を撮影に持ち込めないかな、と思った」
そこで2010年夏、山元さんは東欧のエストニアを訪ねた。障害者施設でボランティアとして滞在しながら、作品づくりを試みた。
「施設には障害がある人たちが100人くらい住んでいて、そこでいっしょに遊んだり、絵を描いたり、食事の介助をしたんです。3カ月もいたら距離が近くなって撮れるかなと、考えていたんですけど、入所者は思っていたよりも重度の障害で、撮影に踏み込んでよいものか、答えが見つからなかった」
施設の周囲にはどこまでも林や畑が広がっていた。山元さんは午後3時に仕事が終わると自転車をこいで小さな集落を訪ねた。すると、村人は見知らぬ闖入者である山元さんをすんなりと受け入れてくれた。
「みんな寄ってきて、仲よくしてくれた。撮影にも興味を持ってくれて、子どもたちと遊びながら、一人ひとり撮影させてもらいました」
集落には廃虚となった住宅がいくつもあった。
「子どもたちが『あそこがいいよ』と、教えてくれて、さまざまな廃墟の中で撮影した」
帰国後、フィルムを現像すると「いままでに見たことのない写真」が写っていた。「『これだ』って、思った」。
■10年間も東欧諸国に通ったわけ
その後、山元さんはエストニア以外の東欧諸国にも足を運び、作品を写してきた。
「撮影するのは廃屋や自然のなか。そこでいろいろな実験しながら撮っている、という感じです。例えば、その人に薄い布をかけたり、触れたり。それはポーズをつける、というよりも、触れることで『撮っているよ』、ということを相手に伝える。その人の自意識がなくなるように1~2時間かけて、何かが剥がれたような感じになるのを待つんです。私は何も言わないで、ただ、撮るんですが、そのうちに相手はボーっとするというか、寝てしまう人もいる。何が写るかももちろん大事ですが、そのときの時間が尊いと感じました」