砂津の専用軌道を快走する流線形時代の1938年にデビューした門司行き118型。画面左奥には工場を併設した砂津車庫が写っている。砂津~富野(撮影/諸河久)
砂津の専用軌道を快走する流線形時代の1938年にデビューした門司行き118型。画面左奥には工場を併設した砂津車庫が写っている。砂津~富野(撮影/諸河久)

 走ってきたのは1938年に登場した流線形の118型だ。2020年5月23日配信の「流線形路面電車編」にエントリーしたが、掲載を割愛した経緯がある。戦後の更新工事で左右非対称車体を両端出入口車体に、前灯も頭部から腰部に移設するなどの改装で印象が変わったが、日本車輛が製造した張上げ屋根のスマートな車体は健在だった。なお、画面右先の専用軌道で跨ぐ線路は、小倉鉄道が1915年に敷設。後年国鉄に添田線(東小倉~石田~香春~添田)として編入され、さらに日田線へ統合されてから、この付近(東小倉~石田)は貨物線となった複雑なルーツの路線で、1962年に廃止されていた。

■幸町から戸畑終点の点描

昭和時代の香り豊かな飲食店を左手に見て、三差路の幸町交差点を走る砂津行き118型。西鉄戸畑・枝光の両線は、2000年の北九州線全廃に先立ち、1985年に廃止された。(撮影/諸河久)
昭和時代の香り豊かな飲食店を左手に見て、三差路の幸町交差点を走る砂津行き118型。西鉄戸畑・枝光の両線は、2000年の北九州線全廃に先立ち、1985年に廃止された。(撮影/諸河久)

 北九州線の大門から分岐して戸畑に向う戸畑線と枝光線とのジャンクションである幸町(さいわいまち)交差点が次のカットで、幸町経由砂津行きの路面電車が枝光線の中央町(ちゅうおうまち)方面からやって来た一コマだ。画面左が大門方面で、画面右手前の分岐線が戸畑方面になる。幸町にちなんだ「幸食堂」や「モダン焼」の飲食店が軒を連ねるレトロな背景は昭和の憧憬といえよう。

地方鉄道然とした西鉄戸畑ターミナルには洞海湾の潮の香りが漂っていた。中央町行きの101型は戦前生れのオールドタイマー。(撮影/諸河久)
地方鉄道然とした西鉄戸畑ターミナルには洞海湾の潮の香りが漂っていた。中央町行きの101型は戦前生れのオールドタイマー。(撮影/諸河久)

 最後のカットが、3線4面の戸畑ターミナナルを発車する幸町経由中央町行き101型だ。1936年汽車製造製だが、幕板が厚く垢抜けないスタイルだ。屋根が付いた隣のホームには砂津行きの600型が待機していた。訪問当時、戸畑と若松を結ぶ若戸大橋が完成していたが、画面右奥の戸畑渡場からは北九州市営の若戸航路(若戸渡船)も対岸の若松渡場へ頻繁に発着していた。嬉しいことに若戸渡船は今も健在で、戸畑~若松の所要時間は3分、大人100円、自転車50円の運賃で洞海湾のミニクルーズを楽しめる。

 次回は魚町から北方を結んだ北方線のエピソードを紹介しよう。

■撮影:1968年3月15日

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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