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アラタンホヤガさんは10年ほど前から故郷である中国北部の内モンゴル自治区に通い、モンゴル民族の伝統的な生活風景を撮り続けてきた。作品には雄大な草原が広がり、のどかな暮らしが営まれている。
ところが、「もうこんな光景はほとんど残っていません。私はわずかに残る風景を撮影して記録し、伝えていきたいと思っています」と、アラタンホヤガさんは語った。
しかし、日本人に「内モンゴル」について説明するのはなかなか難しいという。
「出身地をたずねられて、『内モンゴルから来ました』と言うと、すぐに『朝青龍、白鵬を知っていますか?』という話になっちゃうんです。『いや、違います。それはモンゴル国です』と答えると、『じゃあ、中国人なんですね』って、言われてしまう」
確かにアラタンホヤガさんの国籍は「中国」である。しかし、アイデンティティーをたずねると、「自分はモンゴル人です」と、きっぱりと答えた。
内モンゴル自治区に暮らすモンゴル民族は約420万人。北に接するモンゴル国の人口約335万人よりも多い。
ところが、民族名を冠した自治区にもかかわらず、モンゴル民族は少数派で、自治区の人口約2400万人のうち、モンゴル民族の占める割合はわずか約17%にすぎない。大半は移住してきた漢民族である。
「内モンゴルは『自治区』ですが、最近は『省』の一つくらいに思っている人がたくさんいる。実際、自治区の政治はモンゴル人ではなく漢人がほとんど行っています」
アラタンホヤガさんは政治に興味はないと言う。「でも、この作品の状況を説明しようとすると、どうしても政治的な要因を話さざるを得なくなる」。
■自分たちの土地を手に入れたが
インタビューの冒頭、アラタンホヤガさんが真っ先に見せてくれたのは砂漠化した草原に伸びる鉄条網の写真だった。それは中国に暮らすモンゴル民族の生活や伝統文化を根底から変えてしまった定住化の象徴だった。
彼らはもともと遊牧の民だった。さまざまな家畜を飼い、ゲルと呼ばれる組み立て式の家に暮らし、豊かな草を求めて広大な草原を移動しながら生きてきた。
そんな遊牧社会が失われ始めたのは1980年代初頭。市場経済を導入する鄧小平の開放改革路線のもと、中国全土にあった「人民公社」が解体され、公有制だった土地の利用権を個別農家に移行する「各戸請負制」が始まった。
モンゴル民族も自分たちの土地を手にした。すると、その境界を鉄条網で区切り始めた。ほかの家の家畜が入り込み、草を食い荒らされるのを防ぐためだった。
広大な草原が鉄条網で区切られ、自由に移動できなくなると、遊牧生活のシンボルであるゲルに住む必要性はなくなった。住まいはれんがづくりの家に変わった。
77年生まれのアラタンホヤガさんが少年時代を過ごしたのは、まさにこの移行期だった。
住まいは北京の北450キロにある都市シリンホトにあったが、夏休みになると母方の田舎に遊びに行くのが楽しみだった。遊牧で暮らしていた親戚たちが草原を流れる小さな川のほとりに集まった。アラタンホヤガさんは毎朝、牛の乳しぼりを手伝い、昼は羊の番をしながら親戚の子どもたちといっしょに川遊びを楽しんだ。