■何げない生活そのものが文化
一方、アラタンホヤガの父親はモンゴル語の学術誌の編集者だった。学校から帰った後、よく父親の仕事を手伝った。「家に持ち帰った原稿を子どもたちが順番で読み上げて、それを父がチェックしました」。
家にはたびたび日本からモンゴル語の研究者が訪れたという。
「90年代にモンゴル国の民主化が進む以前、日本のモンゴル研究者は内モンゴル自治区をよく訪れていたんです。ところがモンゴル国が外国人に開放されると、内モンゴル自治区は忘れられた存在になってしまった」
父親が手がけていたモンゴル語の学術誌も予算不足を理由に休刊になってしまった。「たぶん、政府はそんな本を出してほしくなかったんだと思います」。
中国政府がモンゴル民族の自治区に漢民族の大規模な移住を推し進めた背景には同化政策があり、中国語の使用強化もその柱だった。
アラタンホヤガさんは2001年、日本に留学。09年に新潟大学大学院を卒業すると、家電メーカーに就職した。
ところが、2年後には退職し、日本写真芸術専門学校に入学する。写真家を目指すようになった理由をたずねると、「サラリーマンで人生を終えたくなかった」と言う。
「内モンゴルの消えていく文化を見つめていくうちに、どうすればそれを次の世代に残せるか、考えるようになりました。リアルに、目に見えるかたちで伝えるには写真がいちばんいいと思った」
内モンゴルにも写真家はいる。しかし、アラタンホヤガさんが写すような被写体には興味がないという。
「彼らにとって、それはただの日常だから。でも、その何げない生活そのものが文化なんです。ところが、そんな日常がどんどん重なって、気づいたら、消えてしまっている。私はそれを写真で残したい」
そう、はっきりと意識するようになったのは09年以降という。「でも、子どものころからそんな気持ちがずっとあった。父からそういう教育を受けてきましたから」と、口にする。
■馬に乗れない子ども
いま、内モンゴル自治区では遊牧は完全に消え、代わりに行われているのは定住牧畜という。
かつて、モンゴル民族は羊、ヤギ、牛、馬、ラクダと、5種類の家畜を飼っていた。
「それぞれの家畜には役割があったんです。ラクダは運搬用。馬は乗り物のほか、乳から馬乳酒をつくった。羊とヤギは肉をとったり、羊の毛からひもを編んでゲルの材料にした。牛は食肉用のほか、ミルクからチーズやバターなどの保存食を作って、厳しい冬を越すのに備えた」
人々はそれぞれの家畜が好む草を求めて草原を移動した。
「移動することで、1カ所の草が食べ尽くされず、草地が復活した。ところが、定住牧畜になると、同じ場所の草をずっと食べさせるので草が育つ力が土地から失われてしまった。どんどん砂漠化が進んだ」