大きな期待を背負って迎えたメジャー1年目。ブレーブスとの開幕戦では1番ショートで先発出場を果たし、1回表にメジャー史上初となる開幕戦新人の初球初打席本塁打を放ち、鮮烈なデビューを飾った。だが、それ以降は攻守において精彩を欠く場面もあり、デビュー時以上のインパクトを残せないままシーズンは終了した。

「センターバックスクリーンに飛び込む一発を放ったデビュー戦は全米中で大きく取り上げられた。さらなる活躍を期待したニューヨークのマスコミやファンは結果が出なくなってからの手のひら返しが凄かった。激しいバッシングにさらされ本人も苦しんでいた」(当時のスポーツ紙MLB担当記者)

 しかし、ルーキーイヤーは故障などもありながら114試合に出場し、打率.272(460打数125安打)、7本塁打、44打点、14盗塁という成績をマーク。守備でも失策の多さが指摘されたが、それでもレンジファクター(守備範囲の指標)はメジャーでもトップクラスの数値を記録した。新人王の投票でも、のちに2000本安打を達成したマット・ホリデー(当時ロッキーズ)に次ぐ6位に入っている。

 その後、メッツではチームのトッププロスペクトだったホセ・レイエスにショートのポジションを譲りセカンドにコンバートされるなど、満足な数字を残すことはできなかった。だが、06年途中にロッキーズへのトレード移籍が転機となり、メジャーで存在感を示すこととなる。

「移籍は成功だった。腰痛に悩まされながらも移籍2年目の07年にはワールドシリーズ出場を果たした。93年にできた歴史の浅い新興球団にとって初の快挙。メッツ時代とは異なりコロラドの人たちにとっては今でも英雄的存在。チームの歴史に名前を刻んだ」(在米スポーツライター)

 ロッキーズに加入した06年は32試合の出場ながら、打率.345(113打数39安打)、2本塁打、19打点、8盗塁をマーク。翌07年はシーズン途中に怪我から復帰すると、二塁手として定位置を確保し、104試合の出場で打率.288(410打数118安打)、4本塁打、37打点、32盗塁(リーグ9位)と活躍。チームのプレーオフ進出に貢献した。勝ち進んだプレーオフでもフィリーズとの地区シリーズ第2戦で逆転満塁本塁打を放つなど、球団創設以来初となるワールドシリーズ進出の立役者となった。

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