新聞の書評に取り上げられるなど反響を呼び、発売即重版が決まった『パンダとわたし』(黒柳徹子と仲間たち・著)。本の編集過程では、たくさんの取材やインタビューを行いましたが、収録しきれなかったエピソードも多々あります。今回は、本には未収録のインタビューを特別に公開! 中国文学が専門で、パンダファンという東京大学附属図書館特任研究員の荒木達雄先生と、古い文献からその存在をたどってみてわかったこととは?
■パンダらしき生き物が文献に登場するのは3世紀ごろ
――今は、中国の動物園などに行くとジャイアントパンダ(以下、パンダ)は「大熊猫(ダーションマオ)」「熊猫(ションマオ)」と呼ばれていますが、昔からこのような呼び名が使われてきたのでしょうか。
どちらも古くから使われているような印象の呼称ではありません。日本語の「ジャイアントパンダ」や「パンダ」は、中国語からではなく、英語などにおける呼称をそのまま受け入れたものと考えられますが、中国語の「大熊猫」「熊猫」も欧米の名称の訳語であるという指摘があります。それ以前に中国においてパンダに接する機会のあった人々は、また別の、さまざまな呼び方をしていたようです。
パンダが近代世界に広く認知されたのは19世紀後半のことです。フランス人のダヴィド神父が1869年に四川省の民家で白と黒の毛皮を見て、その毛皮を手に入れてフランスに送ったのがきっかけとされています。この時、ダヴィド神父が地元の人から聞いたこの動物の呼称は「白熊」であったそうです。科学的に、かつ国際的に認められた動物として統一した名称を与えられる以前には、パンダを指す固定した呼称は存在していなかったのではないかと思われます。
その後、欧米のさまざまな探索隊がパンダを求めて中国に行きましたが、成功したのは1929年のことです。中国で編纂された初期の近代的な辞典として『辞海』(1936~37年初版発行)がありますが、その「熊猫」の項では、「怪獣の名。新疆に産する。体はきわめて大きく、現存する怪獣のなかでももっともめずらしいものの一種。フランスの科学者ピエール・ダヴィドが発見、1929年にアメリカのルーズヴェルト将軍の弟が初めて捕獲し……(以下略)」(1948年に上海で発行された縮印本より引用)と説明されています。
発見の経緯などから、パンダの説明であることは確かなのですが、『辞海』の編者が、現実のパンダの詳細な情報も得られないまま、未知の不思議な存在として手探りで記述していた様子がうかがえます。