そのようにして編まれた言葉は詩でも歌でも散文でもなく、文字通り声に他ならなかった。つまりこの『メメント・モリ』は机上における文字によって書かれた本ではなく“声”によって“書かれた”不思議な本なのである。

 午後の三時にその作業ははじまり、終えたのは翌朝、空が白みはじめるころだった。

 ここでもうひとつ言っておくべきことは、私はその写真100点すべてに言葉を付すつもりはなかったということだ。ある一定量の言葉を吐いて自分が終わりを感じた時にその作業をゲームセットにしたいと思っていた。したがって筆をおくのではなく、声を絞り出し、ついに声が途絶えた時に終えるということであり、おのずと本のページ数もそれによって決まることになる。

「あの景色を見てから瞼を閉じる」

 はっきりともうこれが最後だと意識し、吐かれた言葉がそれだ。その言葉を付した写真はアフリカで出会ったこの世のものとは思われないほど美しい田園風景だった。そして最後の言葉は文字通り『メメント・モリ』の終わりに付された。

 全身から力が抜けるように眠りに就こうとしたとき、眼を射るかのように東の窓から眩しい朝日が差し込んで来た。その光が今でも網膜のどこかに居残っている。

 思うにこの『メメント・モリ』という本がかくも長生きしているのはひょっとするとそれは文字によってではなく、生々しい声によって作られた本だったからかも知れないと思うことがある。

 そしてもうひとつ言えることは自分を追い込み、切羽詰まった状態で吐いた言葉(声)というものは自分で客観視できないということだ。文字であれば破るか消しゴムで消すような恥ずかしい言葉さえ、吐いてしまったが最後それは終わりなのである。

 したがってこの30代の終わりに書かれた本の文字は今見ると赤面するようなものもある。だがそのような言葉さえ臆面もなく活字化していることもまたこの本が長生きしている源泉なのかも知れないと思うことがある。

※『一冊の本』2018年12月号より転載

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