1990年代後半のターザン後藤さん(本人提供)
1990年代後半のターザン後藤さん(本人提供)
この記事の写真をすべて見る

 5月30日夕方、いきなり舞い込んだ訃報(ふほう)。1990年代から2000年代にかけて、プロレス界で一世を風靡(ふうび)したデスマッチファイター・ターザン後藤(本名・後藤政二)さんが、29日午後6時50分に都内の病院で死去した。関係者によると、死因は肝臓がん。今年判明し、闘病中だったという。享年58。還暦を目前にした旅立ちだった。

【写真】ターザン後藤さんの別カットはこちら

 後藤さんの元付き人で現在は本市で介護職員をしている元FMWのプロレスラー・ミスター雁之助さんが、自身のSNSで発信した。

「後藤さんが働いていた都内・押上の町中華『太楼ラーメン』の常連客の方からご連絡をいただきました。最初は半信半疑だったのですが、その後、通夜・告別式の案内状も送られてきたので公表することにしたのです」(雁之助さん)

 筆者は昨年12月、後藤さんにインタビューしている。当時の後藤さんの話から、それまでの後藤さんの足跡とプロレス観、そして人柄などを紹介したい。

 後藤さんといえば、何といっても大仁田厚さんとの度重なる有刺鉄線デスマッチだろう。

 日本初の有刺鉄線デスマッチが開催されたのは、1989年12月10日のFMW・後楽園ホール大会。大仁田さんとタッグを組み、松永光弘&ジェリー・ブレネマン組とのプロレス対空手の異種格闘技マッチだった。

「FMWはこの年の10月に旗揚げしたばかりで、当時アメリカに住んでいた俺は、大仁田から電話をもらって帰国し、参戦することにしたんです。でも団体の知名度が低いから、フロントは営業にとても苦労してた。それで、他団体がやってない、過激なデスマッチやストリートファイトを看板にせざるを得なかったわけです」(後藤さん)

 当時を知るプロレス雑誌の元編集者がこう振り返る。

「デスマッチ自体は、旧国際プロレス(1966~81年)が金網デスマッチを看板にしていたので珍しくはなかった。それだけに、さらにセンセーショナルな形式が求められ、有刺鉄線をリングロープの代わりにする『ノーロープ有刺鉄線デスマッチ』が考案されたのです」

コーナーポストからダイビングするターザン後藤さん
コーナーポストからダイビングするターザン後藤さん

 有刺鉄線に触れるや、いとも簡単に皮膚が裂け、手足はもちろん、リングは流血で赤く染まった。インパクトは大きかった。

「お客さんの反応は想像以上に大きかったですよ。プロレス専門の雑誌や新聞だけじゃなく、スポーツ新聞も大々的に取り上げてくれたから、チケットは黙ってても売れるようになりましたね」(後藤さん)

 さらにバージョンアップしたのが、有刺鉄線に電流を流して爆薬を仕掛けた「ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ」。90年8月4日、後藤さんが大仁田さんと対戦した都内・レールシティ汐留(旧汐留駅跡地)大会で初お披露目した。

「怖くなかった、というとうそになります。誰もやったことがなかったから、下手すると爆死するかもしれない。そんな恐怖がありました」(後藤さん)

 両者血だるまになる激闘の末、後藤さんは力尽きて敗れたが、その年のプロレス大賞MVPと同ベストバウト(年間最高試合)の両方を受賞。その勢いを買って翌91年9月には、川崎球場で大仁田さんを相手に「ノーロープ有刺鉄線金網電流爆破デスマッチ」を挙行し、3万3千人もの観客を動員。FMWは全日本プロレス、新日本プロレスに次ぐ団体にのし上がり、インディーズブームを牽引(けんいん)した。

 気になったのは爆破の瞬間だ。体にはどのような痛みが生じるのかを聞くと、

「肉が内側からバシッと弾けるような感じです。試合中はアドレナリンが出てるせいかあまり痛みは感じないんですが、リングを降りてから2、3日間は、全身がやけどでほてってジワジワと気持ちの悪い痛みが続きます。でも他団体と違う目立つことをしないと、お客さんに来てもらえません。痛いだのつらいだのと言ってる場合じゃなかったですよ」と後藤さん。

 当時は年間250試合超。デスマッチではなくても、ほぼ毎試合、流血・乱闘が続き、額は縦にいく筋もの深い傷が刻まれ、丸太のような太い腕も生傷が絶えなかった。

次のページ
他団体と違う目立つことをしないとお客さんに来てもらえない] --}{!-- pagebreak[PM