プロレスには厳しかったターザン後藤さん
プロレスには厳しかったターザン後藤さん

プロレスにはすごく真剣に取り組み、いつもピリピリしていました。練習も厳しくて、ニックネームの『鬼神』そのもの」と後藤さんの印象を語るのは、前出のミスター雁之助さんだ。

 その一方、こんな一面も。

「92年の1月ごろ、四国・高松市での大会前夜でした。タニマチさんの酒席に後藤さんとご一緒させてもらい、テンションが上がった僕は、後藤さんが引き揚げてからも延々と飲んでいたんです。翌日午後3時ごろ、気がついたのは病院のベッド。僕は急性アルコール中毒で担ぎ込まれていました。大仁田さんは、お酒の失敗を許さないタイプだし、ましてや新人の大失態。青くなりました。そうしたら、後藤さんが大仁田さんに『本田(雁之助さんの本名)は焼き肉屋で食べた生レバーにあたったので入院した』とうそを言ってかばってくれたんです。厳しいだけじゃなく、人情味もお持ちでしたね」(雁之助さん)

 そんな後藤さんは、95年5月、大仁田さんの2回目の引退試合の対戦相手に選ばれた。ところがその1週間前に退団して大騒動となった。

「離脱の理由? これまで100回を超えるくらい同じ質問をされてますけど、ノーコメント。誰にも話してないんです。真相は墓場まで持っていくつもりです」

 インタビュー時にこう話した後藤さんは、その言葉通り真相を語らないまま鬼籍に入った。

 前出のプロレス雑誌の元編集者もこう話す。

「私ももちろん聞いていないです。でも、一度決めたらてこでも動かない、いかにも後藤さんらしいエピソードですね」

 FMW離脱後は、真FMWを結成してIWA・JAPANやWAR、全日本プロレスなどに参戦した。2002年には、後進育成のために道場兼プロレス会場のインディーズアリーナを埼玉県春日部市に設立し、その後都内の浅草に移転してレストラン「浅草ファイト倶楽部」を併設してファンを喜ばせた。

 その後、墨田区内にプロレス団体「スーパーFMW」を旗揚げ。3年前まで自主興行を開催していた。

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「真相は墓場まで持っていくつもりです」