■醤油の配合を間違ったら… 「六厘舎」出身のラーメン店主がミシュランを取るまで
西武池袋線・東長崎駅南口から徒歩2分。飲食店の集まる小さなビル「マチテラス南長崎」の2階にその店はある。「カネキッチン ヌードル(KaneKitchen Noodles)」だ。ラーメンフリークの店主がたどり着いた至高の一杯で多くのラーメンファンをうならせる名店である。
店主の金田広伸さんは埼玉県朝霞市出身。若い頃はアニメーターを目指して代々木アニメーション学院へ。アニメーターとして2年間働いたが、実力不足を感じ、その後はアルバイトをしていたすし屋に就職した。
それも続かず、今度はホンダの自動車工場で働くことに。夜まで仕事をしては、夜中によくラーメンを食べていた。リーマン・ショックで仕事を辞め、職業安定所で仕事を探していたところ、つけ麺の名店「六厘舎」が地元近くの新座市で工場を開くため働き手を募集しているのを見つけた。そろそろ手に職をつけたいと思っていた金田さんは、「六厘舎」に就職する。33歳の時だった。
はじめの2年間は工場勤務。スープ作りがメインの仕事だったが、最終的にはレシピを任せられるようになった。ちょうど多店舗展開を始めた頃で、とにかく勢いがあった。はじめは60センチの寸胴(ずんどう)でスープを1日2本分炊く仕事だったが、どんどん量が増え1日20本に。24時間態勢でスープを炊く工場になった。
「体力的にはしんどかったですが、このスープと向き合った日々が今の自分を作っています。徹底的に覚えましたね。人が一生で作るスープの量は、この時期だけで余裕で作っていたと思います(笑)」(金田さん)
その後、東京駅の店や別ブランド「舎鈴」の立ち上げなど、いろいろな店舗を回った。年月とともに立場が変わり、従業員管理やマネジメントにも携わり、大変勉強になったという。
退職の2年前ぐらいから独立を見据えて食べ歩きを始める。特に好きだったのが「蔦」「鳴龍」「くろ喜(*)」。濃厚系のスープを作り続けてきた金田さんだったが、独立したらあっさりした清湯系をやろうと心に誓った。
書店で見つけた本に「鳴龍」のラーメンの作り方が書いてあり、それに倣って作ってみた。だが、似たようなラーメンは作れるが、どうしてもクオリティーが届かない。作りたいラーメンのイメージは決まっていたが、技術が追い付いていなかったのだ。自分がこれまで作ってきた濃厚系のラーメンとは基礎の基礎から違ったのである。
そこで金田さんは「鳴龍」の店主・齋藤一将さんに直接質問し、食材の使い方や仕入れ先まで教えてもらうことに。独立前に、地元の朝霞にある定食屋を週1で間借りし、ラーメンを提供することにもなった。「ラーメン 金田」のオープンである。
「安定して同じものは作れなかったけれど、おいしいものはできていたと思います。『鳴龍』さんが麺を卸してくれて、本当にありがたかったです。最後の方は行列もできていたんですよ」(金田さん)
そしていよいよ独立の時。地元で店を開きたかったが物件がなく、エリアを広げ、東京都豊島区の東長崎に決めた。駅前ではありながら建物の2階というあまり条件の良くない物件。アニメーター時代によくこの辺りで仕事をしていたので土地勘があったことと、とにかく早くやりたいという気持ちが大きかったのだという。
「売れてしまえば場所は関係ないと思い、決めてしまいました。建物的に『ラーメン 金田』という名前が合わないと思い、大好きだった『Japanese soba noodles蔦』に敬意を表してオマージュしました」(金田さん)