1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、今年3月に廃止50年を迎えた横浜市交通局の路面電車(以下横浜市電)の思い出を紹介しよう。
【写真】ファンにはたまらない! 58年前「横浜市電」の車庫(計6枚)
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東京オリンピックが開催された1964年春のこと。
高校生の筆者は鉄道友の会が主催する「横浜市電乗り歩き」行事に参加した。当日は市電の横浜駅前停留所に10時に集合し、団体貸切の市電で、麦田、滝頭(たきがしら)の両車庫を訪問して市電を撮影。国鉄(現JR)根岸線の開業で路線の廃止や短縮が予想される杉田線などを乗り歩き、出発地の横浜駅前に戻るスケジュールだった。
冒頭の写真は、最初の訪問地である麦田車庫で撮影した木造単車群。手前の700型の後部には大正期に製造された二重屋根仕様の400型が写っている。車庫の西端の高架線が翌月に桜木町~磯子間が開業する国鉄根岸線で、当日も試運転電車が頻繁に走っていた。写真の木造単車群は朝夕ラッシュ時間帯の増発用で、根岸線の開業後は市電の乗客減が予測されるため、早晩の退役が見込まれていた。
横浜市電は1972年3月31日で残存していた本町線(桜木町駅前~日本大通県庁前)他5線を廃止。1904年に開業以来68年の歴史を閉じている。今年は廃止から半世紀という節目の年にあたる。
次のカットが麦田車庫撮影のメインディシュである420号。残存した400型のうち、車体側面に短冊状の木部が残る逸品だった。製造初年は1924年で、東京瓦斯電気(後の日野自動車)と三菱横浜造船所が製造にあたった。全長9.11m、定員70名(座席定員20名)で、ブリル79E-2型台車を履いた低床式四輪単車だ。正面に掲示された5系統は、洪福寺前~間門/約10000mを結んでいた。
麦田車庫の片隅で
愛好者にとって普段は立ち入れない電車の車庫は、興味津々の世界だった。次の写真は麦田車庫の作業員詰所として使われていた旧416号の廃車体。先ほどの420号と比べ、外板を鋼板張りにしていないことと、青とクリームの旧標準塗装だったので、オリジナルのイメージを味わうことができた。
筆者を含め66名の参加者が「ハマのエース」こと高性能車の1500型に乗車した。写真は麦田車庫を後にして間門、八幡橋を経て杉田線の終点杉田停留所に到着し、折返しを待つ間の一コマ。画面右端には杉田を折返した13系統桜木町駅前行きの市電が写っている。国鉄根岸線が翌月に開業すると、杉田線はその影響を受けて営業係数が悪化し、三年後の1967年8月に杉田~葦名橋間が廃止された。
杉田を折返した貸切車は八幡橋を左折して滝頭車庫に入庫。ここでランチタイム兼ブリーフィングタイムとなり、13時30分に市電の撮影が開始された。