沖縄戦の死者は約20万人。うち一般県民は9万4000人に上る。その総責任者であった牛島はいよいよ自殺する時も、「最後まで敢闘し、生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と命じた。住民や部下から降伏の道を奪った上で死んでいった。

 その牛島の慰霊祭を自衛隊が初めて開いたのは、1976年の慰霊の日だった。前日の深夜、迷彩服姿の自衛官1000人が各駐屯地を出発し、黎明之塔まで徒歩で行軍した。第1混成団(現第15旅団)の団長、桑江良逢(りょうほう)の発案だった。沖縄出身の旧陸軍大尉。手記に「着任以来の念願であった」と書き残している。

 1972年の日本復帰とともに沖縄に上陸した自衛隊は、日本軍とは絶縁して再出発した民主主義国家の実力部隊であるはずだった。日本軍のDNA継承を誓うような儀式、異様な深夜行軍は県民の批判を浴びた。当時の沖縄タイムスは「戦争に巻き込まれた非戦闘員は何と受け止めるのか」と報じた。桑江は中央トップの陸上幕僚長から注意を受け、深夜行軍は一度きりで終わった。

 時代は下って2004年。第1混成団長の君塚栄治が再び、ひっそりと集団参拝を始めた。後に陸幕長にまで上りつめる人物だ。過去の経緯を知らないまま自ら発案したという説明に、自衛隊と旧軍の連綿たる結び付きが浮かぶ。

「どうも自衛隊が集団参拝しているらしい」。翌年、私は情報を得て、半信半疑で張り込んだ。現れた自衛官は制服姿の約100人。塔を仰ぎ見て整列した。鎮魂のラッパが響いた。君塚が式辞を述べた。「沖縄を守るために戦った第32軍を現在の沖縄の防衛を担うわれわれが追悼するのは大切なことだ」

 果たして、日本軍は沖縄を守るために戦ったのか。無謀な作戦を肯定するのか。第1混成団広報室に見解を尋ねたが、「有志を募って開いた個人的行事」「県民感情を害するつもりはない」などと要領を得ない答えが返ってくるだけだった。

 以来、集団参拝は毎年続いている。自衛隊はトップ以下が制服姿で連れ立って参拝することを「私的参拝」と言い張っている。

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引き返せない自衛隊