興味深いことに、名前だけは「平和の塔」と呼び替えられた。なぜ侵略戦争のスローガンを刻んだ塔に「平和」の名を与えるのか、真剣に検討された様子はない。戦前のスローガン「八紘一宇」が実質を伴っていなかったのと同じように、米国から与えられた戦後のスローガン「平和」もまた、空虚な内実を問われないまま、まかり通ってきた。
GHQの総帥マッカーサーはスムーズな日本統治のために天皇免責を必要とし、天皇免責を他の連合国に納得させるために平和憲法を必要とし、平和憲法の非武装路線を裏付けるために沖縄要塞化を必要とし、沖縄要塞化のために直接占領を必要とした。昭和天皇も沖縄の占領継続を望むとの「天皇メッセージ」をマッカーサーに伝えた。
日米合作の「平和国家日本」と抱き合わせにされたのが、「軍事の島沖縄」だった。戦中に続いて日本から切り捨てられ、「非核三原則」を掲げる日本に代わって核兵器を背負わされた。
日本と違って沖縄では「平和」は単なるスローガンではあり得なかった。常に切実な目標だった。
1929年生まれの島袋文子は沖縄のそんな戦前戦後を生き抜いてきた。だから、加害者と被害者の境界をあいまいにすることを許さない。「神様だと信じた天皇は沖縄を米国に売って自分の命を守った。ヤマトはのうのうと生きて、私たちが犠牲になった」と怒りをぶちまける。真の「平和」を探し続けている。
16歳で沖縄戦を迎えた。故郷の現・糸満市は最後で最大の激戦地となった。目の不自由な母と10歳の弟の手を引き、死体をまたぎ、砲弾の破片をかいくぐってさまよった。ある夜、地面に光る水をすくい、母、弟と分け合ってのどを潤した。翌朝その場を去る際にふと振り返ると、水たまりには死体が浮いていた。死者の血を飲んで生き延びたのだ。戦後も母と弟には黙っていた。
島袋が「亡くなった人に生かされている。支えられている」と言う時、それは比喩ではなく事実そのものである。だから、戦争体験を語れば夜は眠れなくなることが分かっていても、求められるままに語る。戦争につながる事態の一つ一つに烈火のごとく怒る。「沖縄の反戦おばあ」などと呼ぶメディアがあるが、そんな生やさしいものではない。「ダイナマイトで爆破してやりたい」という啖呵(たんか)は何度も聞いた。