原発と基地――「国益」の名の下に犠牲を強いられる「苦渋の地」で今、何が起きているのか。政府や行政といった、権力を監視する役割を担うメディアは、その機能を果たせているのか。福島と沖縄を持ち場とする2人の新聞記者が、取材現場での出来事を綴った『フェンスとバリケード』。著者で沖縄タイムスの阿部岳記者が、沖縄「慰霊の日」に行われる自衛官参拝と、戦没者の遺骨を広い続けるボランティアへの取材を通して見た、いまだ続く沖縄と本土との“分断”について綴った第12章「捨て石の島で」から一部抜粋してお届けします。
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■闇夜の参拝
2021年6月23日、「慰霊の日」。私は今年も、夜明け前の「黎明之塔(れいめいのとう)」で待機していた。
闇の中から、自衛官の一行が現れた。今年は制服姿が少ない。1、2、3人。先頭に立つ沖縄の陸上自衛隊トップ、第15旅団長が脱帽し、花束を捧げる。報道陣のフラッシュが光る。一行はあっという間にきびすを返し、来た道を引き返していく。
塔は沖縄戦の激戦地だった沖縄島南部、糸満市摩文仁(まぶに)の丘の上にそびえる。日本軍司令官の牛島満と参謀長が1945年6月23日午前4時半ごろ、この場で自殺したことをもって、組織的戦闘が終わったと位置付けられる。自衛官の集団参拝は、その時間に合わせて続けられてきた。
沖縄戦は、何重もの沖縄差別の上に遂行された。沖縄は本土を守るための「捨て石」に指定された。戦闘の目標は勝利ではなく、あてどもない引き延ばしだった。だから首里城地下の司令部に米軍が迫っても日本軍は降伏せず、住民が先に避難していた島南部になだれ込み、犠牲を増やした。
戦前、日本軍は住民を飛行場建設や陣地壕構築に動員していた。いざ戦闘になると、住民は足手まといなだけでなく、軍事機密を知るやっかいな存在になった。沖縄の言葉を話す者はスパイとみなして処刑するものとされ、実際に処刑された。「友軍」は自らが生き延びるために住民の食料を奪い、避難場所である壕を奪い、赤子の泣き声が敵に聞こえないように命を奪った。根底にあった住民に対する蔑視が、牙をむいた。