神明町車庫前。最小車体長の都電は1000・1100型の10mだった。写真の1126は葵工業による戦災復旧車で、1949年に復旧されている。更新修繕前のスタイルで、車端にビューゲルを装備していた(撮影/諸河久:1963年5月12日)
神明町車庫前。最小車体長の都電は1000・1100型の10mだった。写真の1126は葵工業による戦災復旧車で、1949年に復旧されている。更新修繕前のスタイルで、車端にビューゲルを装備していた(撮影/諸河久:1963年5月12日)

 2枚目の写真は1000・1100型が主力として配置された神明町車庫前の撮影で、20系統江戸川橋行きとして発車を待つ1100型。この神明町車庫は大塚車庫などと同様、大正期に建てられた煉瓦造り3階建の重厚な外観で、戦前生れの1000・1100型と良く調和した。

 この1126は5両在籍した1100型戦災復旧車の一両で、屋根上の通風器が省かれていた。撮影時はブリルKB76Aを履いていたが、目黒車庫に転属した最晩年にはD10台車と交換されている。

■最大重量は王子電軌の引継ぎ車

 自重17.5tの5500型が都電のヘビー級チャンピオンと思っていたが、最古の都電に引き続き、この項目でも旧王子電軌160・170型の18.3tがトップとなった。昭和初期の1927年に製造された両形式は、鋼体リベット止めの堅牢な車体構造だった。車齢40年に達した最晩年になっても、荒川車庫を拠点にかくしゃくとして稼働した。

王子四丁目~神谷橋。北本通りを走る27系統赤羽行きに充当されたヘビー級の170型。晩年になっても、リベット止め車体は堅牢だった。都電の後方を1962年式「いすゞTX」ダンプカーや「ダイハツCM8型」三輪トラックが走っていた(撮影/諸河久:1965年1月24日)
王子四丁目~神谷橋。北本通りを走る27系統赤羽行きに充当されたヘビー級の170型。晩年になっても、リベット止め車体は堅牢だった。都電の後方を1962年式「いすゞTX」ダンプカーや「ダイハツCM8型」三輪トラックが走っていた(撮影/諸河久:1965年1月24日)

 次の写真は北本通り(国道122号線)に敷設された赤羽線を走る27系統赤羽行き170型。東京と川口・浦和を結ぶ北本通りは交通の要衝で、都電は軌道上に溢れたクルマを掻き分けながら運行していた。

 170型は川崎造船所で8両が製造され、王子電軌時代は200型(216~223)の付番だった。都電になってから170型に改番された。後年、川崎市電への譲渡や3000型への改造で3両が廃車され、5両が1968年まで残存した。

■最小重量だった仲間たち

 都電の軽量車で忘れられないのが、1942年に登場した700型だ。1930年に製造された5000型以来の新造車で、新型台車を履いた半流線形の軽量車体はファンを魅了した。20両が木南車輛で製造され、自重は12tだった。ちなみに、同規模の鋼体化改造車1000型の自重は13.5tあるから、1.5tも軽量化されていた。

四谷見附。軽量・騒音低減を設計コンセプトにして、スマートな半流線形車体で登場した700型。戦前唯一の軽量車で、自重は12tだった。晩年は3系統(品川駅前~飯田橋)専用車として活躍した(撮影/諸河久:1964年5月10日)
四谷見附。軽量・騒音低減を設計コンセプトにして、スマートな半流線形車体で登場した700型。戦前唯一の軽量車で、自重は12tだった。晩年は3系統(品川駅前~飯田橋)専用車として活躍した(撮影/諸河久:1964年5月10日)

 写真の3系統品川駅前行きの700型も紹介しよう。ウイングバネ式のD13台車は乗り心地が良かったことを記憶している。5両を戦災で失ったが、15両全車が三田車庫に配置され3系統(品川駅前~飯田橋)専用で運行されていた。軽量構造が災いして車体の傷みが顕著になり、乗降扉の交換などの更新修繕を経て1966年まで使われた。

 いっぽう、1956年から耐用年数を短く設計された8000型が登場した。翌年までに日本車輛(本店・東京支店)、日立製作所、ナニワ工機で131両が製造された。工作方法を簡易化してコストの低減を図った経済車で、軽量構造の車体や台車はそれまでの概念を打ち破るものだった。7000型(自重15.5t)と同等の車体寸法で、自重は12tに収まっている。
軸バネを省略したD21台車は騒音と振動が激しく、乗客の評判はイマイチだった。

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