2枚目の写真は1000・1100型が主力として配置された神明町車庫前の撮影で、20系統江戸川橋行きとして発車を待つ1100型。この神明町車庫は大塚車庫などと同様、大正期に建てられた煉瓦造り3階建の重厚な外観で、戦前生れの1000・1100型と良く調和した。
この1126は5両在籍した1100型戦災復旧車の一両で、屋根上の通風器が省かれていた。撮影時はブリルKB76Aを履いていたが、目黒車庫に転属した最晩年にはD10台車と交換されている。
■最大重量は王子電軌の引継ぎ車
自重17.5tの5500型が都電のヘビー級チャンピオンと思っていたが、最古の都電に引き続き、この項目でも旧王子電軌160・170型の18.3tがトップとなった。昭和初期の1927年に製造された両形式は、鋼体リベット止めの堅牢な車体構造だった。車齢40年に達した最晩年になっても、荒川車庫を拠点にかくしゃくとして稼働した。
次の写真は北本通り(国道122号線)に敷設された赤羽線を走る27系統赤羽行き170型。東京と川口・浦和を結ぶ北本通りは交通の要衝で、都電は軌道上に溢れたクルマを掻き分けながら運行していた。
170型は川崎造船所で8両が製造され、王子電軌時代は200型(216~223)の付番だった。都電になってから170型に改番された。後年、川崎市電への譲渡や3000型への改造で3両が廃車され、5両が1968年まで残存した。
■最小重量だった仲間たち
都電の軽量車で忘れられないのが、1942年に登場した700型だ。1930年に製造された5000型以来の新造車で、新型台車を履いた半流線形の軽量車体はファンを魅了した。20両が木南車輛で製造され、自重は12tだった。ちなみに、同規模の鋼体化改造車1000型の自重は13.5tあるから、1.5tも軽量化されていた。
写真の3系統品川駅前行きの700型も紹介しよう。ウイングバネ式のD13台車は乗り心地が良かったことを記憶している。5両を戦災で失ったが、15両全車が三田車庫に配置され3系統(品川駅前~飯田橋)専用で運行されていた。軽量構造が災いして車体の傷みが顕著になり、乗降扉の交換などの更新修繕を経て1966年まで使われた。
いっぽう、1956年から耐用年数を短く設計された8000型が登場した。翌年までに日本車輛(本店・東京支店)、日立製作所、ナニワ工機で131両が製造された。工作方法を簡易化してコストの低減を図った経済車で、軽量構造の車体や台車はそれまでの概念を打ち破るものだった。7000型(自重15.5t)と同等の車体寸法で、自重は12tに収まっている。
軸バネを省略したD21台車は騒音と振動が激しく、乗客の評判はイマイチだった。