銀座四丁目交差点を走る最大車体長の5500型。写真の1系統品川駅前行き5502は、1953年のデビュー当初MSN車と呼ばれ、翌年登場予定のPCC車の先陣として喧伝された。銀座二丁目~銀座四丁目(撮影/諸河久:1967年10月21日)
銀座四丁目交差点を走る最大車体長の5500型。写真の1系統品川駅前行き5502は、1953年のデビュー当初MSN車と呼ばれ、翌年登場予定のPCC車の先陣として喧伝された。銀座二丁目~銀座四丁目(撮影/諸河久:1967年10月21日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回も「都電ナンバーワン」の視点で展望した車両編として、都心の街並みを振り返りつつ、最大車体長と最小車体長、それに最大重量と最小重量の都電を紹介しよう。

【都電が走る半世紀前の東京都内の写真はこちら(計5枚)】

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 年の瀬になると、東京はいつも以上ににぎやかになる。だが、これは例年の話。コロナ禍の今年は、きらびやかな銀座の街を歩く人も少ない。

 冒頭の写真は、いまから53年前、銀座の中心地でもある銀座四丁目交差点を行く1系統品川駅前行きの都電車両5502だ。カラーポジフィルムで撮影した貴重な一コマで、フィルムはブローニーサイズのコダック・エクタクロームXを用いている。このエクタクロームXフィルムは半世紀以上経過しても退色を免れ、銀座四丁目を走る都電の彩(いろどり)を今に伝えてくれる。

 この5502は、都電の中で最大の車体の長さ14.3mを誇っていた。PCC車のライセンス製造である5501と国産高性能車5502~5507の7両がこの車体長となる。車両限界による制約で、運転線区が品川駅前~上野駅前を走る1系統に限定された。他線区に転用できないことから、1967年12月の銀座線廃止時に命運を共にしている。10年余の車齢で廃車されたのは、あまりにも残念だった。

 5502は斬新なデザインの車体に高性能機器と台車を艤装(ぎそう)し、PCC車の嚆矢として1953年に就役した。本来のPCC車とは異なるため、登場時はメーカーの頭文字を取ってMSN車(M=三菱電機/電気品・S=住友金属/台車・N=ナニワ工機/車体)の呼称でメディアに喧伝された。

■最小車体長は戦前の鋼体化改造車

 都電で最小車体長だったのは、1933年から1936年にかけて、旧来の木造市電を鋼体化改造した1000・1100型だ。この鋼体化シリーズの車体長は10mで、後続の増備車は流線形編でも取り上げた1200型になるが、こちらは僅か300mm車体長が長いので、最小車体長の選から漏れている。

 当初1000・1100型は、製造順で通し番号を付番されていたが、1936年製の車体からは前面に傾斜が付けられ、ややスマートな形態になった。戦後の改番時に、このグループが新たに1100型として別形式になった経緯がある。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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