■夜に仲間と酒を飲んでも線虫の世話で途中で帰宅

 広津の出身は、京都府京田辺市。サラリーマンの家庭が多いベッドタウンで、野球少年として育った。本人曰く、「小学生にして、球速120キロ投手だった。でも、ノーコン」。同級生の今堀泰助(47)は、「関西人らしくラテン気質の広津は、ボケとツッコミの、ツッコミ役だった」と証言する。

 2010年に他界した父は弁護士を目指していたが、最終試験で落ちて、プラスチック加工会社のサラリーマンに。人が足りない時は工場で夜勤して、徹夜明けで息子の少年野球を観に来るような、「典型的な昭和のお父さん」だった。

 母は、「なんでも器用にできるスーパーマンのような人」。若い頃に栄養士だったこともあり、料理上手。服はさっと作るし、水彩画も描く。字もきれいだ。広津には姉がいて、母は2人を育てながら、家の一間を使って補習塾も開いていた。

 試練が訪れたのは、広津が中学生の時。突然、父が脳卒中で倒れたのだ。「リハビリである程度は回復はしたけれど、父は一時期ボケたようになっていた」。当時の中小企業では、後遺障害を負った社員を、今のように守ってはくれなかった。専業主婦だった母が、療養中の父を連れ、父の会社の下請け企業に働きに出た。中高生の頃は、姉とともに広津も、両親の仕事を手伝いに行った。

「母が大黒柱みたいになって、父の面倒を見ながら2人を大学まで出して。子に不自由をさせたくない母の気持ちは伝わっていました」

 母は苦労を顔に出さなかったが、二言目には、「お父さんは弁護士試験に落ちて夢を諦めちゃったから、こうして苦労してる。あなたは、世の中から認められるような職業に就きなさい」と言っていた。広津は、「何事もより広く、より高く、みたいなところは、母にすり込まれた」。

 母は広津に対して、決して怒らなかったが、褒めもしなかった。広津が入試で狙い通り、理学部がある東京大学の理科二類に受かっても、「あなたの受験番号あったね」としか言わなかった。

「息子に対する期待が、強烈に高かったんじゃないですかね。『あなたは東大がゴールじゃない。ここで終わるわけじゃないよね?』って」

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