■起業し研究生活に区切り、東京進出で勝負をかける

 広津は、里帰り出産で鹿児島に帰っていた文代の実家に寄る度、実験結果を事細かに報告。

「私があまりにもテンション高くしゃべったから、出産前の妻には嫌がられていました(笑)」

 この成果の論文が米科学誌に掲載されたのが、15年3月。九大に報道陣が大挙してきた。

「ノーベル賞を受賞したわけでもないのに、フラッシュライトをたかれて。まさか、こんなに線虫が世間で注目されるとは、思わなかったです」

 途端に、「共同研究をしたい」という企業や、「実用化しましょう」と起業を持ちかけてくる人が押し寄せた。中には、儲けたい一心で近づいてくるような人も含まれていた。自分は社長にならずに、別の人に経営を委ねて一度は起業してみたものの、理念が食い違い1年で見切りをつけた。

「技術を広めるという理念を貫くには、自分が社長になるしかないな」

 覚悟を決め、16年8月に、今の会社を起こした。

 ただし大学の仕事と社長業の両立は困難だった。翌年3月に大学での研究生活に区切りをつけ、東京で勝負しようと、家族で東京に出てきた。

 九州育ちの文代は、東京行きに不安もあった。それでも、会社設立後、福岡と東京を行き来していた夫に、自ら「東京に行こう」と提案した。

「公務員の家族として、一生安泰かなと思っていたんですけど、いまはベンチャー社長の妻ってことになって。それでも、あんなに鬱々としていた彼が、発見を機に、急に生き生きしだして。目標があって、それを続けられる環境が一番かなと」

 九大の生物学科の中條信成(51)は、広津が肩書なしで勝負しているところに、凄(すご)みを感じるという。

「大学の職を辞すとき、広津さんは『これからは自由に、自分の思い通りにやるんだ』と言っていました。大学から起業する研究者はわりといますが、安定したアカデミックポストを捨てて、退路を断ってまで腹をくくれる人は、そうそういない」

 最近は国内外を問わず、広津が大きなカンファレンスでの講演に招聘(しょうへい)される機会も増えた。

「日本ではベンチャーの社長というと、外れ者みたいに思われるけど、海外に行くと、やっぱり博士って尊敬されてますよ。日本ほど科学者が尊敬されていない国はない。大学も汲々としている。将来、子どもたちに『日本の大学に行きたい』と言われて、よしっと言ってあげられるかどうか……。私は日本の科学の地位を、正常に戻したい」

 言葉に熱がこもる。そして広津はこう続ける。

「理系のキャリアパスを増やし、ロールモデルを作るためにも、まずは自分らが成功しなければ」

暮らしとモノ班 for promotion
「更年期退職」が社会問題に。快適に過ごすためのフェムテックグッズ
次のページ