東八幡キリスト教会にある納骨堂。これまで奥田らが出会い、抱樸が自立を支援した元ホームレスらが眠る。路上から脱した仲間は「互助会」を作り、月額500円の会費を募り、仲間の見舞いや葬儀を行う(撮影/横関一浩)
東八幡キリスト教会にある納骨堂。これまで奥田らが出会い、抱樸が自立を支援した元ホームレスらが眠る。路上から脱した仲間は「互助会」を作り、月額500円の会費を募り、仲間の見舞いや葬儀を行う(撮影/横関一浩)

■先輩に連れられた釜ケ崎、出自と向き合うきっかけに

 神から与えられる使命感も明確にできずにいた大学時代。それが、ある「地図にない町」との出会いで一変する。

 ある日、尊敬する2学年上の吉高叶(かのう 58)という先輩に「飯でも食わへんか」と誘われた。なにも考えないまま電車に乗り、大阪環状線の新今宮駅で下車。そこは「カマ」の別称で知られる大阪市西成区「釜ケ崎」。日本最大の寄せ場の入り口だった。足を踏み入れた途端、妙な臭いが鼻を突いた。何度か通っているうちに、それが酒と小便が入り交じった臭いだと分かった。何も知らない18歳は、軽蔑のまなざしで昼間から路上に寝っ転がり、酒をあおる彼らをながめていた。実はこの先輩は最初から奥田に釜ケ崎を見せたかったのだ。

 数日後、今度は先輩と一緒にカマに泊まった。午前4時にたたき起こされ、向かったのは労働福祉センター。そこには早朝から地下足袋姿で、頭にタオルを巻いたおやじさんたちが、仕事を探してたむろしていた。殺気立つ者もいた。サラリーマン家庭で育った奥田には理解しがたい光景だった。そして、この時初めて、あの路上を占拠していた人々が、仕事にあぶれた日雇い労働者であることを知る。当時、学生を受け入れていたNPO法人「釜ケ崎支援機構」理事長の山田實(69)は、釜ケ崎に来たばかりの奥田をこう語る。

「当時、いくつかの大学の学生が炊き出しなどの支援に来ていました。その中でも特別、目立っていたかというと、そうでもありません。クリスチャンだということは後になって知りました。どちらかというと育ちのいい好青年。与えられた役割を真面目にこなしているという印象でした」

 奥田はこの日を境にして釜ケ崎にのめり込んでゆくのだが、やがて自らの出自と向き合うことを余儀なくされる。釜ケ崎に全国から単身労働者が押し寄せたきっかけは、70年の「大阪万博」だ。高度経済成長の真っただ中に開催された万博を契機に鉄道や道路、住宅の建設のための労働者需要が高まった。しかし、実際は重層的な下請け構造のもとで働く日雇い労働者は、資本家の都合で仕事が増減する「景気の安全弁」に過ぎなかった。

 奥田の父は「近畿電気工事株式会社(現きんでん)」の経理担当で、サラリーマンだった。近電工と言えば、万博会場の施設電気の設備の中心を担った大企業。物心ついた時、父に連れられて万博を見に行った。「万博はお父さんの会社が作ったんだ」。少し自慢げに語る横顔が忘れられない。父はシベリア抑留から命からがら逃げ延びた戦争体験者でもあった。

「苦労したからこそ、家族には不自由をさせたくなかったんだと思います。坊ちゃん大学と呼ばれた私大の関学に進学できたのも、全ては真面目で、優しいサラリーマンだった父のおかげでした。しかし、皮肉にもそんな父が作り上げた近代日本の搾取の構造が釜ケ崎の労働者を追い詰めたのだと知った時はショックを受けました」

 そして何より、奥田自身もその恩恵を受けて育った、まさに「時代の子」だった。

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