2019年11月15日、ウィッグの製造・販売を行うスヴェンソンの新宿東口サロンで開かれた「がん哲学外来カフェ」。樋野の講演後は、参加者たちが語り合う。笑いあり真面目な話ありで、初めての人もすぐに打ち解けていた(撮影/岸本絢)
2019年11月15日、ウィッグの製造・販売を行うスヴェンソンの新宿東口サロンで開かれた「がん哲学外来カフェ」。樋野の講演後は、参加者たちが語り合う。笑いあり真面目な話ありで、初めての人もすぐに打ち解けていた(撮影/岸本絢)

■大きくなったら医者になる、子ども心に母の背中で決意

 日本では、2人に1人が生涯にがんになり、年間100万人ががんと診断される。がんは1981年以来、死因の第1位でもある。

 人は自分や家族ががんになると、戸惑い、ときに死を意識する。人生を振り返り、今後どう生きるかを考える。そこで、がんを科学的に、人生を哲学的に学び、がんと共存していく。大まかに言えば、それが「がん哲学」である。樋野は「生物学の法則と人間学の法則を融合した」と言う。

 各地で毎日のように行う講演でも、面談同様に、ヒントになりそうな言葉を繰り出す。

「八方ふさがりでも、天は開いているよ」

「夢を追いかけると逃げる。持ち続けると、夢から寄ってくる」

「困っている人とは一緒に困る。犬のおまわりさんだね」

「人生には、(過去の経験が)もしかするとこのときのためだったのでは、と思うときが来る」

「(象の横に子どもが座る写真を見せて)支えることはできなくても、寄り添うことはできるよ」

「ゲーテは言ってるよ。『涙とともにパンを食べた者でなければ人生の味はわからない』と」

 19年12月には、東京都文京区の小学校で6年生に授業をした。大人向けとほぼ変わらない、小学生には高度な内容だ。だが、感想文を読むと、

<「がん」も個性という話を聞き、考え方が変わった気がします>(女子)

<「病気であっても普通に接する」と聞いて、「がんと共存」し、心配しすぎないようにすることが大切だと思いました>(男子)

<特に印象に残ったのは人との関わり方です。人を評価することはやめようと思います>(男子)

 などと、それぞれの感性で、自分なりに受け止めたことがわかる。樋野はこう語った。

「子どもたちの中に、将来残る言葉が、ひとつでも二つでもあればいい。僕の授業は、大学生は半分寝る。でも、小学生は全員、起きてるよ」

 樋野には40冊近い著書がある。何冊かは英語、中国語、韓国語、ベトナム語に翻訳されている。

 1954(昭和29)年3月7日、樋野は、出雲大社から北へおよそ8キロにある島根県大社町(現出雲市)の鵜峠(うど)で生まれた。「出雲風土記」にも登場する、日本海に面した小さな村だ。

 姉が2人いる。興夫という珍しい名前は、「家を興す」という願いを込めて、船乗りだった祖父の卓郎が付けた。母の寿子(としこ)の兄2人が戦死したのだ。父の廉平(れんぺい)は婿養子で、貨物船やタンカーの機関長をしており、年に1、2カ月しか帰らなかった。家は広く、ニワトリを飼い、ヘビやイノシシが部屋に入ってきたこともあったらしい。

 村に医師はいない。樋野が病気になると、母が背負い、トンネルを抜けて数キロ先の鷺浦(さぎうら)にある診療所まで連れていった。山道を母の背中で揺られながら、3歳のころから、子ども心に「大きくなったらお医者さんになろう」と決めたという。

 少年時代、夕暮れに一人、海に石を投げていると、離れた後方で夕涼みのお年寄りが見守ってくれた。地元の人々は、漁業や土木などで黙々と自らの役割を果たしている。その姿が印象に残った。

 第一の転機は浪人時代である。京都の予備校で、橋本實という英語の先生と出会った。東大出身で、自身の学生時代に総長だった政治学者の南原(なんばら)繁の話をした。樋野は南原の著作を読み始める。やがて関心は、南原が師と仰いだ新渡戸(にとべ)稲造や内村鑑三へと伸び、また南原の次に東大総長を務めた経済学者の矢内原(やないはら)忠雄へと広がった。

 橋本は、プロテスタントの牧師でもあった。樋野は聖書も読み始める。そして、新約聖書「ヨハネの福音書」の「はじめに言葉ありき。言葉は神とともにあった」という一節に魅了された。新渡戸、内村、南原、矢内原もすべて、クリスチャンだ。がん哲学外来で樋野が語る言葉の多くは、新渡戸らの格言や聖書がベースになっている。

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