米国出身の妻のジーンと。ジーンもカフェの参加者たちとよく交流する(撮影/岸本絢)
米国出身の妻のジーンと。ジーンもカフェの参加者たちとよく交流する(撮影/岸本絢)

■森を見て木の皮まで見る、病理学の恩師たちに学ぶ

 73年11月、愛媛大学医学部に1期生として入学。卒業後は病理医を目指した。人と話すのが苦手で、患者と接する臨床医は向かないと考えたのだ。母校の助手となったが、ほどなく、志願して東京・大塚の癌研究会(現「公益財団法人がん研究会」)に“国内留学”した。81年、癌研究所病理部の研修研究員に。これが第二の転機となった。

 所長は菅野晴夫、病理部長は北川知行(現・名誉所長=83)という体制だった。病理部では、菅野と樋野の席が背中合わせになっていた。菅野は、顕微鏡を覗(のぞ)きながら樋野に語りかけた。中でも、菅野の恩師にあたる吉田富三の話が響いた。

 吉田富三は、人工的な肝がん発生に世界で初めて成功した病理学者だ。がん細胞も人間も同じ生命の海を生きる仲間ととらえた。富三の息子でNHKのディレクターだった吉田直哉は、富三は「がん細胞に起こることは人間社会にも必ず起こる」という考えを抱いていたと想像する(吉田直哉著『癌細胞はこう語った 私伝・吉田富三』)。

 菅野はまた、「森を見て木を見て、木の皮まで見る」「広々とした病理学」などと、病理学の神髄を教えた。樋野は、背中越しに聞いた菅野の言葉や吉田富三の著作などから、次第に、がん哲学のイメージをふくらませていった。

 元同僚によれば、樋野は、診断病理(患者の細胞診断や解剖)を勉強しつつも実験病理の研究に熱中したので、一部の診断病理の専門家から風当たりが強かった。だが、「僕は一番大事なところを踏みつけられなければ、何を言われても大丈夫です」と跳(は)ね返していた。北川はこう語る。

「親方日の丸ではない癌研の研究者は野武士ぞろいでした。樋野君は、その中でも最も野武士らしかった。目標を定めると、多少の波風を立てても猛進する。外部の研究者にも会いにいく。それが、現在の活動にも通じているのでしょう」

 89年から91年まで、樋野は米国フィラデルフィアのフォックス・チェイスがんセンターに留学した。師匠は、発がんの仕組みの研究で大きな功績があったアルフレッド・クヌドソン。彼は新しい論文が出ても食いつかず、半年ぐらい経って初めて手に取った。すると、たいていの論文は、もはや大した内容ではなくなっている。

「クヌドソンからは、物事に向かう姿勢を学んだよ。『末梢を追いかけずに根本を見ろ』と」

 樋野はよく、「ほっとけ、気にするな」と言う。余命やがんの再発など未来のことを心配しても、あるいは、「なぜがんになったのか」と過去のことに悩んでも仕方がない。それらは横に置いて、「今」をしっかり生きようというのだ。この言葉は、クヌドソンからも着想を得ている。

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