
■全力で立ち向かうライブ、ペース配分はしたくない
中島はひそかに病院に通い続けたが、根治は難しく、休むことを勧められた。医者から治らないと宣告された以上、中島としては、もはやスタッフに伝えるしかなかった。
ある夜、事務所やレコード会社のスタッフを都内のホテルに10人ほど集め、中島はこう言った。
「実は耳管開放症という病気で歌えない。治らない病気です。みなさんに決めていただきたいです。休業するか、やめるかということを」
後等が当時を振り返る。
「耳がよくないということで、喉(のど)にも負担がかかっていて、無理やり絞り出すような声で歌っていた。本人も相当頑張っていたんだけど、声帯の調子も悪くなっていくし、音程もとれてないですし、コントロールができる状態ではなくなっていったんです。ただ、中島美嘉という経済が動いている中で、やめることでどういうことが起きるかもみんなわかっていたからストップはかけられなかった。残念だけど、本人に言わせてしまい止まった」
これにより2カ月後にひかえていた大阪城ホールと日本武道館の「10周年記念ライブ」4公演の中止が決まった。
実は、後等の中では、長らく危惧もあった。中島がひとつひとつのライブにあまりにも全力で立ち向かいすぎるのだ。いっさい手を抜くことをせず、毎回燃え尽きるように歌う姿を見ていると胸が苦しくなった。それは当然、耳や喉への負担となって積み重なっているはずだった。
中島自身は、こう思ってきた。
「ライブの本数が多くなるとよく、『ペース配分をしなさい』と言われる。もちろん、それは間違っていないと思うけど、じゃ、私自身がペース配分しているライブを見たいかというと、見たくない。自分で喉のケアをし、全身全霊でやって、声が出なかろうが何しようが、あとは本気でやれば伝わるんじゃないか、と。これは生意気にも10代から言ってきたことでした」
■実は裏方の仕事がしたい、考えているとわくわくする
11年春、中島は復帰し、歌い始めたものの、症状は相変わらずだった。ツアーでは手探り状態が続いた。
「身体全体と振動で覚えるという感じで、徐々にコツをつかみ、コントロールがきくようになっていった。みんなから『耳、治ったんだね』と言われたらラッキーでいいと思ってはいるけど、やっぱり音は日々変わる。低音がやたら聞こえる日があったり、高音が頭に響く日もあったり」
16年からは、「プレミアムライブ」と銘打ち、100人単位の小ホールでピアノとベースだけのライブをスタートさせる。小さいところから徐々にコンディションを取り戻していこうという意図もあった。とはいえ、客席が近い分、大ホールとはまた違う緊張感も生まれた。