舞台稽古の合間に代々木上原でMIYAVIによる「イノサン」の劇中歌をレコーディング。その後ソニー・ミュージックのディレクター國米秀樹(左)、後等求とスタジオ内で打ち合わせ(撮影/岡田晃奈)

■耳栓をしたような状態、耳管開放症と診断される

 デビューから5年目の05年、さらに中島をステップアップさせる作品が誕生する。映画「NANA」。熱烈なファンを持つ矢沢あいの漫画の実写化だ。中島は、『NANA』を手にしたことはなかったが、友人から、あの役はあなたがやるしかないと勧められ、読んでみるとファッションをはじめ何から何まで自分と重なり、事務所に頼んで名乗り出たのだ。が、主人公が中島に決定したことが発表されると、ブーイングが巻き起こる。ファンたちは、心の中にあるナナのイメージを崩されたくなかったのだ。

 しかし、いざ蓋(ふた)をあけてみれば、中島の演じるナナは、絶賛される。主題歌「GLAMOROUS SKY」もオリコン1位を獲得した。

「自分では、ナナをどう動かしていいかわからず、自信はなかった。漫画だから、声とか実際の動きとかわからなくて。ただ、上手い下手はおいといて、私は、自分で選ばせてもらったもの、これは自分だ、私じゃなきゃダメだというものは楽しんでやれる。ナナもそうやって根拠のない自信と直感で初めて自ら手をあげたものでした」

 その後も中島の快進撃は続いた。ミリオンセラーを連発し、紅白歌合戦には8年連続で出場を果たした。わずか数年で押しも押されもせぬトップスターへと上り詰めていた。

 先の後等は、その背景をこう分析する。

「楽曲とサウンドメイクというスタッフワーク、本人しか持ちえない声質と歌、センス、ビジュアルの強さが売れ続けてきた理由だと思います。僕らのチームは、サブカルチャーのクリエイターたちと一緒にいい曲をつくるのが得意で、その掛け合わせがうまくいったことも成功の要因だと思う」

 代表的なヒット曲だけではなく、中島のレパートリーの中には、「僕が死のうと思ったのは」(秋田ひろむ作詞作曲)のようなアンダーグラウンドの匂いが漂う心に刺さる歌もある。タイアップ曲となるような良質なバラードとオルタナティヴな曲が共存しているのだ。中島自身もまた10代から何十という詞を書き、アルバムに収めてきた。湧き出る怒り、悲しみや願いを中島の目線で描いた詞への評価は高い。声質、繊細な表現力、人生経験などと相乗するオリジナルの詞は中島のもうひとつの顔だ。

 そんな中島にアクシデントが襲いかかったのは、デビュー10年目を迎えた10年のことだった。

 実は、その2年ほど前から違和感はあったが、誰にも言えず、中島はライブを続けていた。

「自分の歌が変わってきているということはうすうす感じていたんです。でも何が原因かはわからなかった。周りの人も異変を感じだして、二つ目に行った病院で耳管(じかん)開放症だということがわかった。症状としてはちょうど耳栓をしたり、プールに入っているときのような状態。自分の声が身体の中でこもるような感じです」

 事情を知らないファンの間からは、中島のパフォーマンス低下に対して、辛辣な声も届き始めていた。

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