しかし家康は、冬の陣での和睦条件として堀を埋めることを要求。主要な堀が失われた大坂城は裸城(はだかじろ)も同然となり、翌年の大坂夏の陣では落城してしまう。その後、秀吉の大坂城は、家康・秀忠父子によって破壊され姿を消した。
「現在の大坂城は、秀吉の大坂城に盛土したうえで再築したものです」
現在も残る遺構は、2代将軍・徳川秀忠が高石垣(たかいしがき)と幅広の堀をもった近世城郭に変貌させたものだ。
第2位は、秀吉が隠居城として築いた伏見城。
「さすがは天下人となった秀吉が築いた城だけに、隠居城とはいえ、防御におこたりはありません」と小和田氏も高評価をする。
縄張りの広さは大坂城には及ばないものの、本丸を中心に各曲輪が階段状に配され、守りは堅い。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、わずか2千で押し寄せる西軍4万と戦い、10日以上も持ちこたえたほどだ。
廃城後は明治天皇の伏見桃山陵となった。周辺の城域には、石垣や残石が残されているが、伏見城といえば、伏見桃山城運動公園内に残る“怪しい”天守を思い浮かべる方も多いだろう。
この天守は遊園地の施設として建てられたもので、閉園後は取り壊されるはずだったが、市民の要請を受け存続が決定。今では、伏見城の象徴になっているという不思議な経緯を辿っている。
第3位は、織田信長が豪華絢爛な天守を築いた安土城だ。最寄り駅はJR琵琶湖線の安土駅である。
「安土城は、総見寺の境内なので入山料が必要です。ただし本来の安土城からすれば、見学できるのはごく一部だけです」
とはいえ、見学には1時間は要する広さがある。
安土城の曲輪は、本丸を中心に階段状に配され、当時は琵琶湖が城下まで迫っていた。城から直接琵琶湖に漕ぎ出せ、京や秀吉の長浜城、光秀の坂本城とも行き来できたという。ただ残念ながら、城の周囲は埋め立てられ、その面影は残されていない。
「総石垣で築かれた城には華麗な天守も建てられていました。天正10年(1582)の本能寺の変の後、天守は焼失しましたが、天守台石垣は残っています」
この他、主要な門が桝形虎口(こぐち=出入り口)となるなど、最先端の築城技術や知識が導入された城だった。