NHK大河ドラマ「麒麟がくる」にもたびたび登場する戦国の城。そこは政務を行う場所や城主の住居でもあったが、戦うための軍事施設であることが最優先された(注/江戸時代以降に築城された近世城郭については、その限りではない)。「麒麟がくる」で資料提供を担当している歴史学者の小和田泰経氏によると、「城の魅力とは、守りの堅さに集約されている」という。
「一般的に“堅城”とされる城ほど、現地で見て楽しめるポイントが多々あります。城域の地形、石垣・土塁、堀、櫓(やぐら)等、城址の情景から、往時の姿に思いを馳せやすいのです」
そこで今回、小和田氏が、各城の地形や縄張りの広さ(敷地面積)、曲輪(くるわ=区画)の配置、石垣・堀、天守、櫓などを考察し採点。「戦国の堅城ベスト30」を選定した。その中から代表的な城と、今話題の明智光秀が攻めあぐねた城を巡り、その魅力に迫った。
最初に訪れたのは、100点満点で堂々のランキング第1位に選ばれた大坂城(大阪城)である。
「上町台地の北端に築かれた大坂城は、城下町を取り囲んだ惣構(そうがまえ=城の外郭)の総延長が8キロにも及んでいました」
現在でも大阪市の中心部に広大な城域を持つ。そのため最寄り駅が多く、アクセスはよい。また高低差もさほどないため、城散策にはもってこいだ。
大坂城は、織田信長を10年にわたり苦しめた石山本願寺の跡地に築かれた城。
「明智光秀は、本願寺を攻める際に信長が築いた付城のひとつである“天王寺砦”を守備していました」
このとき光秀は、砦を本願寺勢に攻められ敗北寸前の危機に陥るが、信長に命を救われている。
この広大な縄張りを行ったのは、豊臣秀吉の軍師で築城名人としても名高い黒田孝高(よしたか=官兵衛)。しかし築城名人が築いておきながら、なぜか城の南側には弱点があったという。
慶長19年(1614)11月に勃発した大坂冬の陣では、徳川家康も弱点の南側から攻め寄せている。しかし冬の陣の直前、この弱点に気づいた真田信繁(幸村)によって、惣構の南外側に出丸・真田丸が築かれると、防御力は格段に強化された。このとき徳川軍は、惣構から城内に侵入することはできなかった。