最高級のタネとして世界中の鮨ファンから愛されるトロ。実は徹底的に嫌われていたのだ、100年前にこの店が握るまでは。
「鮨の食べ方に決まりはありません。好きな順番で御自由に。楽しみ方は人それぞれですから。でも時々トロだけ食べて帰る人がいると、他のも味わってほしいと思いますけど」
東京・日本橋の「吉野鮨本店」5代目店主の吉野正敏さんは苦笑する。トロ握りは、この店で大正8年か9年(1919年か20年)に生まれた。ファンにとって聖地である。
大正時代まで、刺し身といえば白身。鮪は下魚(げざかな)と蔑まれてきた。辛うじて赤身を醤油に漬けて握る店はあったが、脂の多い部分は大衆食堂で臭い消しのネギと煮込んで飯にかけていたという。それがなぜ握られるようになったのか。吉野さんが続ける。
「2代目・正三郎の頃。不漁で値段が高く、うちは赤身にも手が出なかったんです。やむをえず、脂っこいからアブと呼ばれているところを買って握りました。それを気に入ってくれたお客さんもいたわけですね。注文のとき『色の段だらの』とかと言ってたけど、名前がないと不便。常連の方が『口の中に入れたらトロッとする。じゃあトロにしよう』とおっしゃって決まったそうです」
今やトロは最高級のタネ。ウニが初めて軍艦巻きとして出されたのは昭和16(1941)年といわれるし、平成に入ってからサーモンが人気を集め始めた。日本人の嗜好の変化が鮨を変えている。
「握り鮨が誕生して、まだ190年くらい。日本料理の長い歴史を考えたらまだまだ新参者で、変える余地もたくさんあると思います。でもその前に私は、鮨の基礎や原点を学ぶ必要があると思っています。冷蔵庫のない江戸時代には、魚をもたせるため締めたり煮たりする技術が進みました。その手法を、味を良くするために使っています」
煮烏賊、煮蛤など、伝統的なタネを提供しつつ、新タネ作りも試行錯誤している。
「吉野鮨本店」東京都中央区日本橋3‐8‐11/営業時間:11:00~14:00L.O.、16:30~21:30L.O.(土は昼のみ)/定休日:日祝
(取材・文/本誌・菊地武顕)
※週刊朝日 2020年4月10日号