■二度とは会わじの淡路町
別カットは淡路町停留所で信号待ちしている都電の前面窓から撮った一コマ。淡路町線から右折して両国橋線に入ってくる37系統三田行きがカーブを切るシーン捉えている。右側には発車を待つ25系統日比谷公園行の都電が絶妙のタイミングで収まり、まさに「二度とは会わじの淡路町」の都電風景になった。
この作品のように、都電の運転台脇は絶好の撮影ポジションだった。ことに初夏から秋口まで、都電は左右の前面窓を全開にして走っていたから、窓ガラスに臆することなく気儘にスナップ写真が撮れた。
現況写真は靖国通りと外堀通りが交差する淡路町西側の横断歩道から撮影。つい先日まで、交差点左角に出店していた「スターバックス」の建物も解体中だった。
画面奥に写る靖国通りの横断歩道橋は「須田町一丁目歩道橋」の名称だ。1971年3月の竣工というから、半世紀近くも神田の街を見下ろしている訳だ。
■「顔のYシャツ」は今も盛業中
淡路町のお隣、小川町の都電路線はT字路のような三角形状の特殊な分岐点だった。三方向から走ってくる五系統の都電のいずれもが分岐の選別を必要とした。したがって、交差点の南東角にあった信号塔上の転轍手は、三方向の都電を目視して分岐器を操作していた。三方向が見易いように補助ミラーも設置された。ラッシュ時などはトイレ休憩も儘ならず、転轍手泣かせの交差点だった。
神田橋方面から本郷通りを走ってきた25系統と37系統は、小川町交差点を右折して靖国通りに入り、須田町方面に向かっていた。いっぽう、同方向からの15系統高田馬場行きは、ここを左折して靖国通りを九段方面に向かった。三角の底辺を構成する靖国通りには、九段方面から10系統(渋谷駅前~須田町)と12系統(新宿駅前~両国駅前)の二系統が須田町方面に直進していた。
次の写真は本郷通りの小川町停留所に停車する25系統西荒川行きの都電。背後には衣料品、洋服生地の店舗が軒を連ねていた。その中で忘れられない印象を植え付けられたのが、一番右端にある「顔」の看板だ。この看板のお店は、オーダーメイドのYシャツを製造販売している老舗で、創業者の似顔絵の看板が有名になったため、屋号を「顔のYシャツ」にしたそうだ。全国の顧客から発注されたオーダーメイドYシャツを作り続けている有名店で、現店主は1932年生まれの梶秀夫さん。小川町で生まれ育った生粋の神田っ子だ。
「1920年に秋葉原で創業。関東大震災で罹災後、現在の小川町に移転。戦災にもめげずに店舗を再興し、ずっと同じ場所で盛業している」というお話を伺えた。
現況写真の撮影で訪れた小川町の街角に立つと、あの「顔」の看板は健在だった。都電の走っていた時代から半世紀が経過し、近隣の建物がすべて建て替えられた中で、孤軍奮闘する「顔のYシャツ」にエールを送りたい。
■撮影:1967年12月4日
◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経て「フリーカメラマンに。著書に「都電の消えた街」(大正出版)、「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)など。10月8日から14日まで、東ドイツ時代の現役蒸気機関車作品展「ハッセルブラド紀行/東ドイツの蒸気機関車」を「KAF GALLERY」(埼玉県川口市)にて開催予定。