■「聞かされる身にもなって欲しい」という友人の一言

 さて、前回は高校生活で「コミュニケーションは型である」ことを学んだ話を書きました。おかげで人間関係が改善し、中学の時のような暗黒の日々ではなくなりました。仲のいい友達もでき、お腹が痛くなるまで笑い転げたり、家族や友人関係の悩みを打ち明けあったりする青春の日々でした。

 相変わらず余計なことを言ってしまったり、距離の取り方を間違ってしまうことはありましたが、高校生の人間関係というのは大人のそれよりもむき出し感があるといいますか、まだみんなそれぞれに粗削りなところもあったせいでしょうか、トライアンドエラーで学習することができたのです。それに、私がそのような失敗をしやすいことを周囲が「まあいつものことだからな」と思ってくれていたのも有難いことでした。今思うとこれもADHDの衝動性のコントロールがうまくいっていなかったことが原因の一つでしょう。友達とのやり取りの中で、ああ、自分の言動は相手にとっては唐突なことがあるだけでなく、圧が高くてダメージやインパクトを与えやすいのだなと気づきました。

 このころの私にとっては学校での問題よりも母との関係の方が深刻でした。いわゆる過干渉である上に他者という概念を持たない母とのコミュニケーションはかなりのエネルギーを費やすもので、毎日数時間に及ぶ口論が続き、だいぶ追い詰められていました。

 私も私で何としても母に理解されたいという執着が強すぎたものですから、母の蒙昧ぶりを責めたり、感情を爆発させたりしてしまい、余計話が長くなります。ああわからないんだなと諦めてしまえばいいのに、そうもいかないのが家族の面倒なところです。

 そんな母に対する愚痴をよく夜の11時過ぎまで友達に電話で話していたのですが「聞かされる身にもなって欲しい。度を越している」と言われてハッとしました。自分のことしか見えてなかったんだな、私。

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