■要領は昔からすごくいい 無駄なことはしたくない
芸人の又吉直樹(42)の評価も高い。
「あいつの前だとふざけたくなるんです。何でも無視せずに何か言ってくれる。だから、いろんなタイプのボケがみんな向井に寄っていくんじゃないですかね」
芸人だけでなく、「王様のブランチ」のプロデューサーである寺田裕樹も、向井に信頼を寄せる。
「多方面に気を使えて柔軟に対応できる人。場の整え能力が半端ない。映画やドラマについて語るアウトプット能力も高く、咀嚼(そしゃく)して自分なりに表現できる」
向井は芸人になった瞬間から、この世界に居続けるにはどうすればいいかを考えてきた。そこで磨かれたのがストライカーにシュートを打たせるための技術だった。
「天才に憧れていたけど、準備しないで身一つで行って結果を残せるタイプじゃないことはよくわかっていました」
小さい頃からお笑い好き。小学校高学年のときにはすでに芸人を目指していた。4歳上の姉、佑子は幼少期の向井についてこう話す。
「ひょうきんな子で、夏休みに祖父母の家に行くと、きんさん、ぎんさんや光GENJIの真似をしてみんなを笑わせていました。負けず嫌いで、ゲームをして私が勝つと泣きだしたり怒ったりしていましたね」
小学校では生徒会長、サッカー部のキャプテン、中学でも生徒会長を務めた。親から勉強しなさいと言われたことはない。お笑い番組が好きで、中学に入ると、ナインティナイン、海砂利水魚(現・くりぃむしちゅー)、ココリコらのラジオ番組を夢中で聞いた。
進学校の愛知県立瑞陵高校に入学するが、2年生のときに学校に行かなくなる。松本人志の『遺書』を読んだことが原因の一つだ。「おもしろい奴」の条件に「クライ奴」と書かれていて、このまま友だちと楽しく遊んでいては芸人になれないと思った。だんだん友だちとの距離がうまくとれなくなり、学校から足が遠のいた。父の清史はそんな向井を「行かなくてもいい」と見守ってくれた。数カ月もすると次第に落ち着き、また登校できるようになった。
高校を出たら吉本総合芸能学院(NSC)東京校に行って芸人になる、と父親に告げたのは、高校3年の秋の三者面談のときだ。落語好きの清史は息子が芸人になることに抵抗はなかったが、リスクが高すぎると思い、大学を卒業すること、30歳になっても芽が出なかったらやめること、の二つの条件を出した。清史の頭の中にあった芸人像は横山やすしだった。