96年に打率.343でイースタン首位打者を獲得し、翌97年5月17日の西武戦で左翼席上段に飛距離125メートルのプロ初本塁打。5月21日のオリックス戦でもダメ押しソロを放ち、同年は自己最多の7本塁打を記録した。
だが、その後は太もも肉離れや右肩痛、左肋骨骨折など毎年のように故障に泣かされ、レギュラーまであと一歩食い込めない。02年には22試合4番を務め、翌03年にも自己最多タイの7本塁打を記録したが、井上純との外野の定位置争いに敗れ、05年の阪神を最後に通算28本塁打で現役引退となった。
その後、07年にK-1JAPANに入り、格闘家に転身。二足の草鞋を履く形で野球解説者も務めた。
ちなみに“松坂世代”の一人、古木克明も、横浜時代の03年に22本塁打を記録したが、翌年以降出番が減り、プロでは大成できないまま、09年に総合格闘家になった。ロマン砲と格闘技はなかなかご縁が深いようだ。
ミスタータイガースと同じ背番号を貰いながら、真の大砲になれなかったのが、阪神・林威助だ。
甲子園に憧れて台湾から野球留学した林は、柳川高時代に通算54本塁打、近大時代に首位打者も獲得し、02年にドラフト7巡目で阪神に入団した。
06年から掛布雅之が着けていた背番号31を受け継ぎ、07年は主に金本知憲、今岡誠のあとの6番を打った。同年6月10日のソフトバンク戦では、延長10回に野球人生初のサヨナラ本塁打を放つなど、自己最多の15本塁打を記録した。
だが、その後は右肩、左膝靭帯など故障が相次ぎ、年々出場機会も減少。出場わずか1試合に終わった13年に戦力外通告を受け、帰国後は台湾プロ野球の中信兄弟で4年間プレーした。
“金本2世”と期待されながら、ロマン砲から脱皮できずに終わったのが、広島・岩本貴裕だ。
亜大時代に東都リーグ歴代4位の通算16本塁打を記録し、09年にドラフト1位で広島入り。広島時代の金本の背番号10を受け継いだ。同年にオープンしたマツダスタジアムは、岩本の左翼方向への長打力を生かすために、当初7メートルにする予定だった左翼ポール際のフェンスの高さを右翼と同じ3.6メートルに変更したという話も伝わっている。