
――プロデューサーや作曲家など、作品に関わったデータもかなり詳細ですよね。インターネットがない時代、どうやって調べていたんですか?
まずは洋雑誌ですね。かつて銀座の晴海通り沿いにあったイエナ書店、あとは丸善や紀伊國屋書店の洋書コーナーに置かれていた海外の音楽雑誌が主な情報源だったわけですが、学生の頃はそんなに買えないので、鬼のように立ち読みしていましたよ。地元の福岡にも洋書を扱う店はあったんですが、やはり品ぞろえが全然違いますから。現代アメリカ文学も好きで、ちょうどジェイ・マキナニーの『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』が話題になっていた頃ですね。仕事が軌道に乗ってからは、アメリカのラジオ業界誌を空輸で定期購読したり、知り合った現地の業界人を質問責めにしたり(笑)。

90年代にピークを迎えたR&Bの雰囲気を伝えたい
――松尾さんは早稲田大学在学中から音楽ジャーナリストとして活動をスタートしています。この本にも書かれていますが、90年代は頻繁にアメリカに渡り、大物アーティストへの取材を数多く担当していましたね。
「松尾さん、1本のライナーノーツを書くためだけに海外に行っていたんですか?」と聞かれることもありますが、そんな予算が当時のレコード会社にあったかといえば、必ずしもそうではなくて。僕は雑誌の連載のほかにラジオ番組の構成やDJ、NHKの衛星放送のエンタメ情報番組のキャスターもやっていたので、1回の取材でいろいろな媒体で発信できたんですよね。そうやってバジェットを確保していたわけですけど、ただ新譜を紹介したり、インタビューを届けるだけでは、“広報”でしかないなと当時から思っていたんです。商業音楽なので過度にストイックになるのも筋違いだし、自分が好きな音楽を日本の音楽ファンに紹介することは大きな喜びでしたが、もし疑問に感じることがあれば、ほんの一節でもいいから書いておくべきだなと。たとえば「このアルバムもいいけど、二つ前の作品はさらに良かったですよ」といった一文をスッと差し込むとか。そこが音楽ライター、音楽ジャーナリストとしての腕の見せ所だと当時は思っていましたね。
――なるほど。