もしデービスの事件がなければ、中日・ブライアントは、翌年以降落合博満と3、4番を打ち、リーグ屈指の強力打線を構成したはずと夢見るファンがいる一方で、中西コーチとの出会いがなければ、あれほどの活躍はできなかったとする声もある。
ブライアント自身は近鉄へのトレードを“運命”と考え、「近鉄は私にとって全て」とまで言い切っている。
プロ入り後、4年間1軍登板ゼロと鳴かず飛ばずだったのに、トレードがきっかけで大きく花開いたのが、本原正治だ。
1986年に広陵高からドラフト4位で巨人に入団した本原は、88年にイースタンで8勝を挙げたが、戦力が充実した1軍投手陣の中に割って入ることができず、翌89年は2軍でも登板8試合の1勝1敗、防御率7.15にとどまった。
だが、本人も「今年あたりでクビ」と覚悟していた90年6月、投手陣の駒不足で四苦八苦するダイエーに無償トレードで移籍したことが、野球人生を劇的に変える。
チーム防御率5.92という投壊現象のなか、7月29日に1軍登録された本原は、敗戦処理登板した翌30日のロッテ戦で2回を自責点ゼロに抑えると、8月2日の西武戦でプロ初先発のマウンドに上がる。
田渕幸一監督から心中覚悟で送り出された5年目右腕は「勝つとか負けるとか考えず、落ち着いて1回ずつ丁寧に投げるだけ」と自らに言い聞かせながら、8回を7安打4奪三振3失点の好投。うれしいプロ初勝利を挙げた。
そして、シーズン終盤まで先発ローテを守りきると、5勝中3勝を西武から挙げて“西武キラー”の異名をとり、翌91年はオールスター初出場。クビ寸前の崖っぷちから“シンデレラボーイ”になった。
投手と打者の違いはあるが、同じ巨人からホークスに移籍した秋広も先輩に続きたいところだ。
フリーターからプロ入りという異色の球歴を持ち、移籍後に大きく飛躍したのが、城石憲之だ。
春日部共栄時代の91年、甲子園に春夏連続出場した城石は、青学大に入学内定も、練習参加後、体育会系の体質になじめず、わずか1週間で入学辞退。野球も辞め、ガソリンスタンド従業員など1年4ヵ月にわたってフリーター生活を続けていた。