オウム現象を媒介にして……

 もし、トランプをめぐる現象を、オウム事件の再来のように見ることに一定の妥当性があるとしたら、前者の意味を解釈する上で、後者を媒介にすることにも価値があるということになるだろう。トランプ的なるものを理解する上で、オウムを通じて見出されたことを、レンズのように活用するのだ。

 なぜ、そんな回り道を経るのか。オウム現象は、トランプ現象と比べると、その社会的な規模は著しく小さい。その代わり、オウムには、観念的なラディカリティ(徹底性)のようなものがあった。どういうことか。

 トランプ政権は確かに、常識を大幅に破るような思い切ったことを次々と打ち出してはいるが、それは、それでも現実の政治である。現実の状況、歴史的な事情などがあるために、それらに妥協しながらでなくては、ことを進めることはできない。夢見ていることをそのまま現実にできるわけではない。しかし、オウムの場合は違う。オウムに即して解釈すれば、彼らの行動を規定している幻想のシナリオを純粋に、理念型的に取り出すことができる。そのシナリオを手がかりにして、トランプやその側近のテクノ・リバタリアンがやろうとしていること――実際にできるかどうかは別にして実現することを欲していること――を抽出してみるのだ。

 たとえば、トランプは言う。ガザを我が物にして、そこを更地にしたあと、リゾート地にしよう、などと。あるいはグリーンランドを買いたい、とも言う。とてつもない提案である。一体、何をやりたいのか。何を求めているのか。トランプ現象を、オウム現象の回帰という枠組みで解釈したとき、ことがらの本質が見えてくる。

(「一冊の本」2025年6月号「この世界の問い方37」〈朝日新聞出版〉より)

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