大澤真幸著『西洋近代の罪 自由・平等・民主主義はこのまま敗北するのか』書籍の詳細はこちら
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 ここで、1950年代末期にコジェーヴが日本の社会や文化に読み取ったことの妥当性について考えてみようとは思わない。ただ注目しておきたいのは、この部分が、1990年代に熱心に読まれたという事実だ。なぜ、このとき(だけ)、突然、読まれたのか。1990年代中盤の日本社会が、これから世界で起きることの前衛、ポストモダンな世界の先端のように見えていたからである。「歴史の終わり」なるものがあるとすれば、そこに最初に入っていく、あるいはそこを最初に通過する社会が、日本ではないか。そのように、当時の日本人には――そして日本について多少の知識をもっている欧米の知識人の少なからぬ人々には――、見えていたのだ(*6)。

 その後、日本は停滞した。というより――あえて雑な言い方で表現しておくが――、日本社会はむしろ「後退」した。ゆえに現在の日本は、世界で起きることが、次々と先行して現れるような場所にはなってはいない。

 が、しかし、1995年の段階では、日本は前衛に見えていた。そこは、世界の未来を先取りするような場所、後に起きることが予兆のように出現する場所だと感じられていたのだ。このことを考慮に入れれば、オウム現象に、トランプ現象のはるかな先取りを見ることにも、一定の説得力があるのではあるまいか。オウム現象は、いわば現代社会の――あえて「ポストモダンの」と言っておこう――ダイナミズムの早産の子のようなものだとしたらどうであろうか。そして十分な妊娠期間の後に産まれたのが、トランプ現象だとしたら、どうか。

 1995年は、インターネットの爆発的な普及・大衆化の、ほんとうの意味での前夜である。この年の11月に「Windows95」が発売された。この年あたりから、Windows95を搭載したパーソナルコンピュータか、あるいはアップル社のマッキントッシュか、どちらかを端末として使用して、多くの人がインターネットを利用するようになった。オウム真理教をめぐる事件は、まさにそのような年に起きていたことになる。

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