
「誰も関心を持ってくれなかったですけどね」
そんなあるとき、後輩から電話がかかってきた。「面白いバンドを見つけた。伊知哉さんはきっと興味を持つと思う」と。練習場所という緑地を見に行き、衝撃を受けた。これが、女性3人組のバンド、少年ナイフとの出会いだった。後に、中村がサポートし、CDのリリースを実現させる。これが日本より先にアメリカやイギリスで人気に火がつき、日本の音楽業界は騒然となった。
「奇跡でしたね。でも、こんなふうにものすごい才能と出会うと、自分は音楽では生きてはいけないな、と気づかされるわけです」
卒業後は会社勤めをしようと就職活動を始めた。ところが興味のあった放送や広告だけでなく、銀行や証券もすべて落ちてしまう。これはこたえた。進む道が見えなくなったが、では表現活動を支える映像や放送をまるごと管轄するようなところはどこかと考えた。郵政省(現・総務省)だった。1年留年し、国家公務員試験を受験、合格する。1984年の同期入省で同じ寮になり、長きにわたって親しくすることになるのが、現在はインターネットイニシアティブ社長の谷脇康彦(64)だ。
「目立っていましたね。ダブダブのスーツを着て、髪の毛がオールバックでちょっと変わったネクタイをしていて。でも、仕事はできた。霞が関で生きる官僚としてのスキルは高かった」
月200時間残業は当たり前で、官僚が猛烈に働いていた時代。通信自由化や放送政策担当、パリ駐在など、中村は出世街道をひた走っていく。
のちに日常業務で蝶ネクタイをつけ、出で立ちでも霞が関で知られる存在になるが、そのきっかけは入省12年目の大臣官房総務課課長補佐時代だ。
「官房長と予算を説明しに自民党の小渕恵三副総裁のところに出向いたら、いきなり言われたんです。君はきっと蝶ネクタイが似合う、したほうがいい、と。すると官房長が、そうさせます、と」
(文中敬称略)(文・上阪徹)
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