ベンチャー経営者からポップカルチャーのアーティストまで、いろいろなゲストを大学のイベントやオンライン対談に招いている。「学生には、もっともっと日本の価値を知ってもらいたいんです」(写真/鈴木愛子)

「産業界とのパイプ、アカデミズムとのパイプ、エンターテインメント業界とのパイプ、海外とのパイプ、政府とのパイプ……。学長はすべて持っていると言っても過言ではない。こんな大学が作れる学長は、他にはまずいなかったと思います」

 中村は今も学長職の傍ら、財団法人の理事長や社外取締役、委員長、評議員など数多くの肩書を手に日本の産官学を、また世界を飛び回っている。

 1961年生まれ。京都に育った。母、妹との3人の母子家庭は貧しかった。北向き6畳一間、風呂なし、トイレ共同のアパートを覚えている。

「どん底みたいな暮らしでした。でも、僕にとっては幸運だったと思っています。贅沢が身につかなかったから。また、なんとかなると思ってこられたから。進路も自由でした。周囲からの期待もなかったし、縛りもなかった」

大学時代はバンドに夢中 1年留年し郵政省へ

業界を横断して人材をつなげるような場を次々に作る。「MITメディアラボでは100社ほどが集まる場があって、教授たちが仲介したりしていた。日本にはそういうサロンが足りないんです」(写真/鈴木愛子)

 京都の西陣で育った母親がよく言っていた言葉は「好きにしよし」。おとなしい子どもだった。音楽、図画工作、家庭科が好きだった。テレビから流れてくる音楽を聴き、漫画をむさぼり読んだ。少年誌に飽き足らず、少女漫画も読んだ。

「自分が没入できる最高の環境をくれたのが、漫画でした。つげ義春さんなど、多くの作品に触れて、奥行きというか無限の可能性を感じました」

 経済的な理由で大学進学は京都の国公立に限られた。猛勉強し、京都大学経済学部合格を勝ち取る。それまで何の取り柄もないと思っていた自分が、初めて外の世界に入れた気がした。だが、何かしたいことがあったわけではない。「好きにしよし」で興味の方向に突き進む。バンドを始め、尖った学生たちが出入りする京都大学の西部講堂に入り浸った。ロックでテクニックを競う姿につまらなさを感じて、パンクに走った。さらに実験的な音楽や新しい表現の開発に向かう。

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