2016年、オックスフォード英語辞書は、「今年の言葉」として「ポスト・トゥルース」を選出した。そこでこの言葉は次のように定義されている。
 

“世論を形成する際に、客観的な事実よりも、むしろ感情や個人的信条へのアピールの方がより影響力があるような状況”について言及したり表わしたりする形容詞。


 もちろん、1992年と2016年とでは、まったく同じ状況に置かれているわけではない。その違いはいったいどこにあるのだろうか。 

 日本近代文学研究者の日比嘉高は、2016年を大きく特徴づける要素として、情報環境の変化を挙げている。インターネットが普及し、ソーシャルメディアが発達した現代において、人々はある種の情報過多のなかで生きている。政治・健康・環境・経済などの様々な分野に専門家がおり、その意見はしばしば対立することもある。特にインターネット上では、専門家と素人の発言の境も曖昧になる。このような環境のなかで、人々は、そもそもどの情報を信じたらよいのかが分からなくなっていく。

 情報過多の状況にあるからこそ、正しい情報を取捨選択する能力、いわゆるリテラシーが重要であると言われている。しかしそれは容易に身に付くものではないし、情報について判断するためには経済的・時間的コストもかかる。

 このような環境において、人々は自分が信じたい情報を信じるようになってしまう。なぜなら、情報そのものを見ても、その正誤は判断できないため、そもそも正誤が情報を評価する基準ではなくなってしまうのだ。それに取って代わるのは、その情報を信じたいか信じたくないか、という情念なのである。 

 人々が、自分の信じたい情報だけを信じている、という状況は、1992年と2016年の間で違わない。違いがあるとしたら、今日において、そうした情念の支配が、情報過多によって引き起こされているということだ。

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