想定外の事態に慌てた近鉄球団は翌95年の年明け後、複数年契約の条件を呑むなど、慰留に努めたが、すでに野茂の気持ちは米国一本で固まっていた。
1月9日、野茂は「FA権が取れるかどうかもわからないし、取れたとしても30歳を超えてしまう。自分の中で今挑戦したい、そういう気持ちになりました」と米球界挑戦を発表する。
前代未聞とも言うべき野茂のチャレンジは、当然大きな波紋を巻き起こした。マスコミや野球関係者、ファンは野茂を「強行突破」「わがまま」などと非難し、米国で活躍できるかについても、否定的な声が多かった。近鉄・鈴木監督は「世の中、そんなに甘くないやろ。自分の思うようにならんのが人生や。そんな簡単にメジャーでは通用せんのとちがうか。夢も結構やが、自分の力というのもわかっとらんといかん」(週刊ポスト2月10日号)と切り捨てた。肩を痛めた野茂が、メジャーの中4日先発でシーズン通して投げられるかどうかも疑問視された。
騒動のなか、1月30日に渡米した野茂は、2月13日に契約金200万ドル(当時のレートで約2億円)、年俸10万ドル(同約1000万円)でドジャースとマイナー契約。当時の大リーグは前年からのストライキが長期化し、その後4月2日に解除されたが、シーズン開幕は1カ月近く遅れた。この間、野茂は約50日間のキャンプで十分にトレーニングを積み、4月末にメジャー契約を交わす。
そして、5月2日のジャイアンツ戦で、待望のメジャー初先発初登板が実現した。
1回、先頭打者・ルイスをカウント2-2から内角低めにストンと落ちるフォークで見逃し三振。2死後、3番・ボンズから3連続四球と制球を乱したものの、クレイトンをフォークで空振り三振に仕留め、ゼロで切り抜けた。
2回以降は緊張もほぐれ、ストライク先行の投球で5回を1安打7奪三振無失点。0対0の降板で勝利投手にはなれなかったが、試合後、野茂は「今日は投げられただけでうれしい」と満足そうに語った。