
今から30年前の1995年5月2日、ドジャース・野茂英雄がサンフランシスコで行われたジャイアンツ戦でメジャーデビューをはたした。日本に続いて米国でも“トルネード旋風”を起こしたレジェンド右腕が、村上雅則(ジャイアンツ)以来30年ぶり2人目の日本人メジャーリーガーになるまでの道のりを振り返ってみよう。
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「プロに入ったときから、大リーグでやってみたい夢を持っていた」という野茂は1995年1月、近鉄を任意引退という形で退団。メジャー挑戦への道を切り拓いた。
当時の野茂は、野球観が決定的に異なる鈴木啓示監督との確執などから、入団時の夢を実現したい気持ちが強まっていた。
だが、FA権取得までには、最短でも5年後まで待たなければならない。前年の94年、野茂は右肩を痛め、8月に登録抹消されたままシーズンを終えていた。今後も故障すれば、その分メジャー挑戦時期も遅れてしまう。
こうした事情から、12月13日の1回目の年俸交渉で、野茂は故障時のリスクヘッジとして複数年契約を要求した。だが、球団側は野球協約の制度にないことを理由に拒否した。同21日の2回目の交渉も40分で物別れとなる。
さらに野茂の流出を阻止したい球団側は、任意引退同意書にサインさせた。任意引退になれば交渉が決裂し、野茂が退団しても保有権を持つ近鉄が容認しない限り、他球団には移籍できない。「契約しなければ、近鉄でも他球団でもプレーできないぞ」というブラフだが、皮肉にもこれが野茂のメジャー移籍を大きく後押しすることになる。
このルールはあくまで国内球団が対象で、野球協約適用外の米国では、任意引退=フリーエージェントとなる。野茂の代理人・団野村氏は、この協約の盲点を突く“裏技”で野茂のメジャー移籍を可能にしようと考えた(野茂の一件がきっかけで、99年に『外国のいかなるプロフェッショナル野球組織の球団をも含め』の条文が協約に追加された)。