日本ハム在籍4年間で毎年30本塁打以上を量産し、“サモアの怪人”の異名をとったトニー・ソレイタも、当初は全然打てず、“ポンコツ”と酷評された。

 来日1年目の1980年、西武との開幕戦に5番DHで出場したソレイタは、3打数無安打に終わると、4月20日の南海戦ダブルヘッダー第1試合まで33打数5安打4打点7三振2本塁打の打率.152と低空飛行が続いた。

 ところが、ダブルヘッダー第2試合の1回に南海の先発・佐々木宏一郎から左越え3ランを放つと、“無敵の強打者”に変身する。

 3回の2打席目も佐々木から中越えソロを放ったソレイタは、5回にも三浦政基から左中間に3打席連続となる5号3ラン。さらに死球を挟んだ8回の5打席目も藤田学から右越え3ランを放ち、チームの全12得点のうち10点を自らのバットで叩き出した。突然の打棒爆発に、大沢啓二監督も「恐れ入りました」と脱帽。翌日の朝日新聞は「おソレイっタ」の見出しで報じている。

 同年、ソレイタは9月4日の近鉄戦から翌5日の西武戦にかけて、今度は四死球を挟まない4打席連続弾を記録するなど、打率は.239ながら、45本塁打、95打点の活躍。翌81年も本塁打王と(44本塁打)打点王(108打点)の二冠を獲得し、球団では東映時代の1962年以来19年ぶりのリーグ優勝に貢献した。

 1年目でクビになってもおかしくない打撃不振を乗り越え、前出のバースとともに殿堂入りをはたしたのが、ヤクルト巨人、DeNAでプレーしたアレックス・ラミレスだ。

 メジャー出場は3シーズンながら、パイレーツの4番を打ったこともあるラミレスは、ヤクルトに2年がかりで口説かれ、2001年に来日。当時は「日本の野球を下に見ていた」という。

 同年3月30日の開幕戦、横浜戦で来日初安打を放ち、4打数1安打を記録も、その後は三振か内野ゴロの繰り返しで、開幕から22試合目の4月28日の時点で打率.202、5本塁打と低迷。開幕時に5番だった打順も7番に下がった。

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