まず第1試合の浜松商戦に登場した清原は、右越えソロと中越え二塁打を放ち、チームの勝利に貢献。一方、第2試合の伊野商戦で甲子園デビューをはたした190センチ、90キロの巨砲・佐久間は、この大会で優勝投手になった渡辺智男に右前安打1本の4打数1安打1三振に抑えられ、初戦で姿を消した。試合後、「相手投手を大したことないと思ったのが、間違いだった」と力んだスイングを悔やんだ佐久間だったが、清原も準決勝で渡辺に3打数3三振に封じられ、二人揃って同じ投手の前に涙をのむことになった。

 1990年代では、95年に東の沢井良輔(銚子商)と西の福留孝介(PL学園)の両ライバルが大会初日の第3試合で対戦している。

 まず1回表、沢井が右越えに先制ソロを放ち、「(福留より)先に打ちたかった」の願いを叶える。これに対し、福留も1対1の3回にバックスクリーンに勝ち越し3ランを放ち、アーチ競演でスタンドを沸かせた。

 試合は7対7で延長戦に入り、11回に福留が3番手として甲子園初マウンドに上がる見せ場もあったが、10対7で銚子商が勝利。優勝候補筆頭のPLはまさかの初戦敗退に泣き、PLを下して勢いに乗った銚子商は準優勝まで駆け上がった。

 98年には、東の松坂大輔(横浜)、西の新垣渚(沖縄水産)と、東西の剛腕2人が注目を集めた。

 松坂はスピードガンが甲子園大会に普及しはじめた80年頃以来、初の最速150キロを実現し、“平成の怪物”の本領発揮。一方、“伊良部秀輝2世”と呼ばれた新垣も大会2位の146キロを計測した。

 だが、5試合で43奪三振を記録して優勝投手になった松坂に対し、新垣は1回戦の浦和学院戦で5回途中からリリーフ、4回7奪三振の力投も、押し出し四球や一塁悪送球などで自滅して初戦敗退と明暗を分けた。夏も連覇の松坂に対し、新垣は春夏連続初戦敗退と甲子園では勝ち運に恵まれなかった。

 2000年代には、07年に東の中村晃(帝京)、西の中田翔(大阪桐蔭)が大会屈指の強打者として並び称され、チームも揃って優勝候補だった。
 

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近年の“東西の強打者”として注目されたのは…