
3月18日に開幕した第97回センバツ高校野球。最速154キロの石垣元気(健大高崎)、147キロの阪下漣(東洋大姫路)の東西両右腕が注目を集めているが、過去にも大会屈指の好投手や強打者たちが「東の○○、西の○○」と並び称されたことが何度となくあった。
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まず1975年、東の原辰徳(東海大相模)、西の杉村繁(高知)の超高校級強打者2人が、ポジションも同じ三塁手とあって、ライバル同士として注目された。“東西の横綱”だった両校も、下馬評どおり決勝戦まで勝ち進み、紫紺の優勝旗をかけて激突した。
1回裏、東海大相模は3番・原が左翼席に飛び込む大アーチを放つ。三塁を回るときに杉村から「ナイスバッティング!」とエールを贈られた原は「ありがとう」と笑顔で答えた。
そして、同点の延長13回、今度は杉村がゴロで外野を抜く三塁打を放ち、高知が6対5と勝ち越し。三塁ベース上に立った杉村に、原が「こんなときに打ったら、困るじゃないですか」と文句を言う。すると、杉村は「(2年生の)お前には来年があるじゃないか」と返した。
当時の高校野球は、試合中に両チームの選手が親しげに言葉を交わすシーンは珍しく、どこか大人びたムードが感じられたのも印象的だった。
2年後の77年には、東の田中毅彦(土浦日大)、西の鈴木康友(天理)の両スラッガーがクローズアップされた。
鈴木が1回戦の作新学院戦でバックスクリーン右に130メートルの特大アーチを放ち、逆転勝利を呼び込んだのに対し、“大会一の巨砲”と呼ばれた田中は、智弁学園戦で左前安打1本に終わり、初戦敗退と明暗を分けた。
プロ入り後の鈴木は、どちらかと言えば、“守備の人”のイメージが強く、大会屈指の強打者だったことを意外に思うファンも少なくないようだ。
1980年代では、85年に“東の佐久間”として西の清原和博(PL学園)と並び称された佐久間浩一(東海大浦安)の名が挙がる。“左の佐久間、右の清原”は、くしくも同じ日に試合を行っている。