
10年に及ぶ下積み期間 料理が心の支えだった
小川が通ったのは、地元・山形市にある国立大学の附属小学校だ。3人姉妹をこの学校に入れるのが母のたっての望みで、姉2人は合格。だが、受験の希望数が超過し抽選が行われ、小川は当初、入学を阻まれた。受験勉強を続け、小2の編入試験で合格を果たす。
その小学校では毎日日記を書く課題が出された。家族の情愛が感じられない日常を正直に書くのははばかられ、詩や散文のような創作文を書いて提出していた。母は、自分が思うような家族像が描かれないことに文句をつけた。ただ、小川としては学校の先生に「面白いね」と褒められるのが救いになった。
「心が荒む日常をなんとか生きるために、あの頃の私には架空の物語を自由に書く時間が必要でした。『私は、いていいんだ』という存在証明のような時間になっていたと思う」
高校は地元の進学校に進んだが、作家になりたい気持ちが芽生えていた。黙々と受験勉強に打ち込むのが性に合わず、自己推薦入試の枠がある学校を選んで受験。東京の清泉女子大学に入学する。
就職氷河期に社会に出た小川は、小さな編集プロダクションで働いていたが、看板雑誌が休刊に追い込まれ、失職。大学時代に出会った恋人の音楽プロデューサー・水谷公生のアパートに段ボール一つの荷物で転がり込む。小川は27歳の時、26歳年の離れた水谷と結婚する。
「結婚は、流れと勢いでした。山形に帰るつもりはさらさらなかったですし。今思えば、母から早く逃れたい思いもありましたね」

人に雇われて働くリスクを経験し、心に温めていた作家の夢を見つめ直した。そこで、20代後半から小説を書き始めたが、雑誌に3編の短編小説が掲載されてからは、なしのつぶて。「読まれるアテのない小説」(小川)を延々と書くつらさを味わう。その期間を持ちこたえられたのは、料理のおかげだと振り返る。
「音楽業界の人など客人が多く、何より、料理に没頭している時だけは息抜きができました」
06年に転機が訪れる。
(文中敬称略)(文・古川雅子)
※記事の続きはAERA 2025年3月17日号でご覧いただけます

