八ケ岳の家では保存食作り。南麓の別宅では野良仕事。「やりたいことだらけ。一生東京に行かないかも(笑)」(写真/今村拓馬)
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 作家、小川糸。食べることは、生きること──。深い眼差しで「生」を見つめる小川糸が辿り着いたのは、標高1600メートルの森。自身を苦しめてきた母を看取り、20年以上連れ添った夫と別れ、一時は作品を書けないほどのスランプにも陥った。見つけた安住の地で、森に癒やされながら、小川もまた再生の道を歩み始めた。命の愛しさを物語に昇華させる。

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 カラマツの木目が美しい山荘は、標高1600メートルの森に佇(たたず)む。小雪舞う12月初旬に訪ねると、庭先の木に吊(つ)るされた鳥の餌箱(えさばこ)から、黒い影が飛び出す。種をくわえた子リスだった。

 続いて玄関扉が開き、作家の小川糸(おがわいと・51)が「いらっしゃい」と出迎える。厚手のカシミヤのセーターにミナ ペルホネンのデニムを纏(まと)った彼女は、すっかり山の人の佇まいだ。

 鳥のために置いていた向日葵(ひまわり)の種に、リスもお相伴(しょうばん)にあずかるようになったと、小川は楽しそうに打ち明ける。2階の大窓から、そんな小動物の営みを眺めるのも日課のうちだという。

 彼女が八ケ岳中腹に居を構えたのは、2022年の秋。拠点にしていた東京を離れ、土地を入手し、建築家に頼んで完成させた。新たな自宅となったこの山荘を、愛着を込め「山小屋」と呼ぶ。

「彼女がいない生活は考えられない」というほど可愛がる、愛犬の百合音(ゆりね)。約10年前、小川が40歳の時に迎え、ベルリンでの生活をともにした。八ケ岳の山小屋で執筆する時さえ片時も離れない(写真/今村拓馬)

 素朴な白磁の茶器にゆるやかに茶を注ぎつつ、森の大自然と一体になった暮らしの実感を語る。

「日の出を待って、大窓から朝の光を見る。光の色も森の表情も毎日違う。それを見たら、空気に混じり気がない朝のうちに執筆をして、午後は書かずに庭仕事。今の家はノーストレスですね」

 デビュー作となった『食堂かたつむり』(2008年)は、売上累計が90万部を超え、映画化もされた。11年にイタリアの文学賞であるバンカレッラ賞の料理部門賞、13年に優れた料理本から選定されるフランスのウジェニー・ブラジエ小説賞をそれぞれ受賞。小川はフランスで「癒やし系」にあたる《Romans feel-good》と呼ばれるジャンルの代表格に数えられる。

強権的な母との生活 幼い頃から悲しみ抱えた

 この作品の絶妙さは、主人公・倫子が営む不思議な食堂と親子の人物設定にある。恋人の裏切りで声を失った倫子が故郷の山の中で始めた食堂で、迎える客は一日たった一組。倫子は静かな闘志を燃やし、毎回一度限りの料理に献身する。料理を介した交流から絆を深め、確執があった母への愛を取り戻し、自らの声も蘇らせていく。

 編集を担当したポプラ社の吉田元子(54)は、小川作品が世界で共感を呼ぶ理由をこう語る。

「読者の五感に訴える料理描写の鮮やかさは、今も変わらない小川さんの魅力なのですが、内外を問わず読者を捉えているのは、心の描写の細やかさです。難しい母娘関係などをかいくぐってきた小川さん自身の体験に裏打ちされた説得力がある」

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もう、母の言葉は信じない