なぜ父と娘の間には物語が生まれにくいのか。とくにまだ娘が小さいうちは、妻と同じ程度には時間や体験を共有していた。しかし、どうも僕と彼女の間には薄皮が一枚存在している気がしてならない。決して仲が悪いとは思っていないが、あと何ミリかの距離を感じる。
そんなことを思っていた矢先、僕は思わぬ光景を目撃した。娘がまだ小学校低学年だった頃だ。もう何がきっかけだったかも覚えていないが、当時住んでいた家のリビングで妻と娘が本気の言い争いをしていたのだ。
それは感動的な光景でさえあった。ああ、これだ……と、顔を真っ赤に染める二人を見て瞬時にわかった。
もちろん注意することはしょっちゅうだし、説教だってよくしている。娘の方もむくれたり、不機嫌を撒き散らしたりすることはあるけれど、たとえ何があっても僕は娘にここまで自分をむき出しにできないし、彼女の方も食ってかかってはこないだろう。
そう、父と娘はむき出さないのだ。
もしくは、むき出せない。
すべての家庭の父娘がそうとは言わないし、娘側の気持ちは正直よくわからない。しかし、最近になってようやく少し、僕は自分が……、そして世のきっと少なくないお父さんたちがそうできない理由がわかってきた。それは「カッコ悪い姿をさらしたくない」と思うからだ。さらに言うなら、カワイイ娘に「嫌われたくない」と思うから。
そんなおじさんたちの繊細な思いがほんの数ミリの薄皮となって、父と娘の物語が生まれることを阻害している。その仮説を物語に当てはめるとしたら、娘を折檻する父親は己をむき出しにしすぎだし、死んではじめて思いを馳せてもらえる父親はむき出さなさすぎなのだ。
娘と母の小気味よいケンカを遠巻きに見つめながら、かいつまむとそんなことを考えた。
だからといって、娘との関係がことさら悪いものとも思っておらず、薄皮一枚の距離間はむしろ居心地がいいと感じていた。
そんな僕が、そして娘が、はからずもお互いをむき出さざるを得ないときがやって来た。彼女の中学受験である。
正直に記せば、僕は自分自身も経験した中学受験というものにあまり気乗りがせず、このときでさえ半歩引いたところから状況を見つめていた。
僕がようやく当事者として前のめりになったのは、年が明け、受験を間近に控えた頃だった。