
注目対局や将棋界の動向について紹介する「今週の一局 ニュースな将棋」。専門的な視点から解説します。AERA2024年12月16日号より。
【貴重写真】和服じゃない!スマホ片手にデニム姿の藤井聡太さん
* * *
2024年11月11日、関浩(せきひろし)七段が亡くなった。享年64。その訃報が伝えられた12月2日、ネット上ではファンや関係者から、早い逝去を悼む声が相次いだ。
関七段はプレイヤーとしては、タイトル挑戦や棋戦優勝といった華々しい実績はなかった。しかし名人戦やA級順位戦などで観戦記を担当するなど、文筆面での活動に存在感を示していた。筆者もまた、関先生には現場で大変お世話になった。実直、誠実で優しい人柄だった。控室で威勢のいい若手棋士たちが注目の対局をにぎやかに検討しているのを、関七段が微笑みながら、静かに眺めていた光景が思い起こされる。
関青年が奨励会に在籍していた頃、10歳下の大天才・羽生善治少年が入会した。羽生は記録的なスピードで時代を駆け上がっていく。いまから40年前の1984年10月、関三段と羽生二段の対戦があり、その棋譜が残されている。結果は関の勝ち。翌85年、関は24歳、羽生は15歳で棋士四段となった。
1986年。関四段はデビュー以来無敗の6連勝中だった羽生四段と対戦。関は中盤、次の一手問題に出てくるような鮮やかな大技を決めて優位に立った。並の相手であれば、楽に逃げ切っただろう。しかしスーパールーキー羽生は、おそろしいまでの中終盤力で追い込み、ギリギリの勝負になった。現代最新のコンピュータ将棋で改めて検討してみたところ、逆転もしていたようだ。最後はからくも関が競り勝って、羽生の連勝を止めた。後年、羽生は将棋史上に輝く大棋士となった。
「羽生善治九段に初黒星を付けた棋士」
関七段の訃報には、そうしたタイトルがつけられていた。羽生九段の棋譜は後世にも並べ返される。そのときには関七段の名にも、改めて光が当てられるだろう。(ライター・松本博文)
※AERA 2024年12月16日号

