平野啓一郎さん。新潮社の屋上にて(撮影/品田裕美)

 それを知り合いに話したら、当然のように「(その席側の窓から)富士山が見えるからでしょ」と言われたんです。窓口で切符を買うときも「E席にしますか」と聞かれたり、新幹線乗車中も「右手に富士山が見えます」という車内アナウンスがあったりして、やっぱりみんな富士山が好きなんだなと。それが『富士山』を書いた一つのきっかけになっています。あとはコロナ渦のときに、何度か国内旅行をしていたんですよね。こだま号に乗る機会もけっこうあったんですが、小田原駅などでのぞみ号の通過待ちをしていると、向こう側のホームに止まっている新幹線の乗客と目が合ったりするんですよ。そのときにふと「今、“助けて”を伝えるハンドサインを示されたら、自分は助けに行くだろうか?」と考えたことがあって。その要素も『富士山』のなかには反映されていますね。

――短篇『富士山』では、ある出来事をきっかけに、登場人物の関係が大きく変化します。考え方や価値観の違いと言ってしまえばそれまでですが、他者の本心を認識する難しさを改めて実感させられました。

 さきほども言ったように、僕の人間観の基本は分人主義なので、人間を一つの人格に規定するのは正しくないという考え方なんです。人には多面性があるし、そもそも本心というものは非常に不安定なので、他者が簡単にたどり着くことはできないのではないかと。ただ、結婚相手を選ぶとなると、数十年にわたって共同生活することを前提に「その人の本質を見極めたい」と考えてしまう。職場の同僚などであれば、仕事を通していろんな側面を見ることもできるでしょうけど、マッチングアプリの出会いでは、年収や趣味といった属性だけでマッチングされているので、判断のための情報が少ないんですよね。そのなかで将来のパートナーとしての適性を見極める難しさがあると思うんですよね。

後編につづく▶

(取材・構成/森 朋之)

ひらの・けいいちろう/小説家。1975年愛知県生まれ、北九州市出身。1999年、京都大学法学部在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。以後、一作毎に変化する多彩なスタイルで、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。2004年には、文化庁の「文化交流使」として一年間、パリに滞在。美術、音楽にも造詣が深く、幅広いジャンルで批評を執筆している。2023年には構想20年の『三島由紀夫論』を刊行し、小林秀夫賞を受賞した。著書に、小説『葬送』、『高瀬川』、『決壊』、『ドーン』、『空白を満たしなさい』、『透明な迷宮』、『マチネの終わりに』、『ある男』、『本心』等、エッセイに『私とは何か 「個人」から「分人」へ』、『考える葦』、『「カッコいい」とは何か』、『死刑について』等。2024年10月には、短篇集『富士山』を刊行。2021年11月にNHK京都局のスペシャルドラマになった「ストレス・リレー」をはじめ、雑誌発表時から話題となった名短篇、5篇が収録されている。

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