一貫して、反・自己責任論の立場を取っている
――確かにそうですね(笑)。一方で平野さんは、小説『ドーン』以降、“分人主義(※)”という考え方を掲げています。(※人間は一つの人格だけではなく、対人関係や状況によって少しずつ異なる人格を持つという考え方)
分人という考え方は僕の人間観のベースになっていますし、キャラクターの造形、場面場面の描き方など、小説を形作っていくシステムの基礎にもなっています。分人主義を概念的に追求することも第三期、第四期の重要な仕事だったのですが、今回の『富士山』もその延長線上として読める作品なのかなと思います。
――短篇集『富士山』には、“あり得たかもしれない人生”を描いた5篇が収められています。このテーマを設定したのはどうしてですか。
僕は一貫して、反・自己責任論の立場を取っています。自分自身がロスジェネ世代でもあるし、“たまたま”社会の状況が悪くて就職できなかった人が多く、その結果、貧富の格差が広がってしまった。にもかかわらず00年代の新自由主義な風潮のなかで自己責任論に曝(さら)され、「努力していない人が貧しいのはしょうがない」という自己責任論を平然と語る政治家も現れた。そのことにずっと抵抗してきました。みなさんそれぞれの人生を生きているわけですが、なぜそうなったのか?と考えると、そこにはたくさんのファクターが絡んでいますよね。努力の有無などにはとても還元できなくて、“親ガチャ”と言われるような生まれ育ちの環境だったり、運や偶然に左右される部分もある。僕もこれまでの小説を通して、外部環境の影響や社会の構造的な問題を書いてきましたが、そのなかの偶発的なきっかけの部分に今回はフォーカスしました。それが『富士山』の狙いの一つですね。
――なるほど。表題作『富士山』は、マッチングアプリで出会った男女が、小旅行に出かけるというストーリー。富士山が見やすい席から予約が埋まっていくというエピソードがありますが、実際にそうみたいですね。
本当かどうかは定かではないんですけどね。僕自身が東京と関西を新幹線で行き来することが多いのですが、席予約がE席(グリーンならD席)から埋まっていくことにある時気づいて。