リスクと引き換えの“救い”と“悦び”

 ではそれらをすべて理解して、絶対に失敗をしない自信がついてからではないと恋愛やセックスをする資格がないのか、というと少なくとも私はまったくそう思いません。恋愛というのは、多かれ少なかれ、自分も相手も傷つく可能性は大いにあるものです。それはどんなに恋愛の達人のような人であろうが、百戦錬磨のベテランであろうが、逆に初恋の最中の人であろうが条件は変わりません。そういうリスクに自分の魂をさらすからこそ他のものでは得がたい救いに出会ったり、至上の悦びに出会ったりするわけで、自分も相手も絶対に傷つけないのが愛だなんて言っている人のことは信用しない方がいい。稀に、恋愛で傷つけられた、不快な思いをした、といって相手を攻撃する人もいますが、傷つく用意がないのであれば、むしろ恋愛なんてまだしない方がいいとすら思います。

 まったく別の環境で育った二人が、それぞれの理想を持ち寄って、お互いのそれを壊しながらなんとか幸福の擦り合わせをするのが恋愛だとすれば、恋愛する準備ができている状態というのはひとえに、自分の理想が打ち砕かれることに対する腹積もりだと思うのです。信じていたのに裏切られた、悔しく苦しい思いをさせられた、失いたくないのに失った、といった理由で相手に対して攻撃的になって騒いでしまう人は、自分の思い描く理想を壊してまで恋愛をしたくない人なのだと思うのです(攻撃的に騒ぐことがそのカップルの中で盛り上がるための戯れのような場合はどうぞご自由にという感じですが)。その場合は別に恋愛なんかせずに、せいぜい恋愛をテーマにしたフィクションの中で安全に理想を育てていればいいわけです。

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“カエル化現象”を繰り返した十代